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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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学研まんが「NEW日本の歴史」、ヤマト王権支配地域の問題


学研マンガ、ヤマト政権支配地域説明文

学研まんが「NEW日本の歴史」、ヤマト王権支配地域の問題(古代史の虚像と書籍)

小学生向き「学研まんが」「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、「鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」について検討しました。

今回は、「ヤマト王権支配地域」の問題について検討します。

前回の続きになりますが、「NEW日本の歴史」では、「6.ヤマト王権の広がり」で、「ヤマト王権支配地域が、4世紀には北九州を含む西日本全域から、6世紀には東北南部まで広がっていた」とあります(上トップ図と下図参照)。

学研マンガ、ヤマト朝廷の広がり

この証拠として、「ヤマト王権による支配の証拠のひとつは、前方後円墳です」とあります。これは前方後円墳体制と呼ばれる説ですが、このことを証明するためには、前方後円墳建造にはヤマト王権の許可があったという証拠が必要です。しかし、その証拠はありません。

「日本古代史つれづれブログ」の「古墳は語る(18)~「前方後円墳体制は」なかった!?」では、「1.数、分布 2.築造の時代推移 3.祖型、4.規模 からみる限り、「前方後円墳体制」なるものがあったことを立証しうるデータはない」とし、データに基づき解説しています。

さらに、関東・東北南部の事例ですが、確かに前方後円墳が多数みとめられます。しかし、ヤマト朝廷が関東・東北南部を6世紀に支配していた証拠はありません。例えば、本書指摘のように6世紀以前にヤマト朝廷の支配が進んでいたとすると、日本書紀にある関東東北支配のための阿倍比羅夫の北征(658年)は必要なく矛盾します。

詳しくは「ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した」を参照願います。

また、6世紀の時代は、拙ブログでは、継体王(在位:507-531年)が巨大古墳建造のツングース系王家を滅ぼした時代と見ていますが、継体王(ヤマト朝廷)に関東・東北南部を支配する余裕は無かった時代です。その意味で、関東・東北支配は阿倍比羅夫の北征658年(7世紀)に始まったと観るのが妥当と思われます。

以上のことから、関東・東北南部の前方後円墳はヤマト朝廷とは関係なく建造されたと結論されます。

一方、韓国西南部にも前方後円墳がありますが、ヤマト朝廷との関係はこの地域はさらに不明で、ここもヤマト朝廷の支配下にあった証拠はありません。詳しくは「朝鮮半島の前方後円墳と倭王「武」の関係」を参照願います。

まとめますと、前方後円墳があるから、そこはヤマト政権支配地だとは言えません。このような荒唐無稽な証拠の無い説が小学生向け歴史解説書「NEW日本の歴史」(2012)に載せられていることには、いかんともしがたい焦燥感を感じます。まさに、日本の古代史は戦前と変わっていません。


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[ 2021/08/27 09:15 ] 古代史の虚像と書籍 | TB(-) | CM(2)

学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題


学研マンガ、鉄剣碑文ワカタケルの記事


学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題(古代史の虚像と書籍)

小学生向き「学研まんが」新版の「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、「倭の五王はヤマトの王でない問題」について検討しました。

今回は、「埼玉県出土の鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」について検討します。

新版では、「6.ヤマト王権の広がり」で、「ヤマト王権の大王、「ワカタケル大王」の名がきざまれた剣が、埼玉県の稲荷山古墳や熊本県の江田船山古墳から出土したことから、ヤマト王権の支配の範囲の広さが想像できます。」とあります。関連し、上トップに鉄剣文字の入った`本書の記事を示しました。

しかし、この鉄剣文字「獲加多支鹵」が本当に「ワカタケル」と読めるのかが問題です。ある万葉文字の専門家によれば、「ワカタケル」と読めないとあります。敢えて読めば「エカタシロ」または「エッカタシロ」となるようです。きちんとした専門家の検討が必要です。詳しくは「稲荷山古墳出土鉄剣の万葉仮名愚考」を参照願います。

また、本書で「ワカタケル」と呼ばれているのは雄略天皇のようです。記紀に彼は幼少の時「幼武」と呼ばれていたのでワカタケルは雄略天皇だとしていますが、大王になったときにも「ワカタケル」と呼ばれていた訳ではありません。鉄剣碑文ですので、正式な名称があるべきで、本書の説明はこじつけ解釈と思われます。

さらに、雄略天皇については、記紀に名前があるだけで、実在を証明するものは何もありません。また、大和朝廷が関東地域を支配し始めたのは、日本書紀にあるとおり、阿倍比羅夫の北征が始まった658年以降で、鉄剣碑文が作成された時代(5世紀)ではありません。詳しくは「ヤマト朝廷による関東・東北支配は短期間に完了した」を参照願います。

一方、拙ブログでは、同様な鉄剣碑文が熊本県の古墳でも発見されていることから、「エカタシロ大王」は当時5世紀の偉大な大王、すなわち、中国の南朝の歴史書にも記載されている北九州の「倭王武」と指摘してきました。「倭王武」は、中国南朝の宋から「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」となったことが認められ、偉大な大王であったと判断されます。

そこで「エカタシロ大王」は、どのような意味になるかですが、北九州倭国はマレー系の稲作民族の国ですので、使われていた言語はマレー語だったとしますと、「慈悲深い大王」の意味になります。詳しくは「エカタシロ(ワカタケル)大王の意味」を参照願います。

次に、なぜ埼玉県古墳出土の鉄剣に倭王武が紹介されているのか疑問が残ります。そこで調べますと、倭王武が関東に来ていたことが常陸国風土記に記載されております。この流れから見ると、北九州の倭王武が隣の碑文入り鉄剣が出土した埼玉でも知られた存在であったことは言うまでもありません。詳しくは「北九州の倭王「武」は関東に来ていた」を参照願います。

関連し、倭王武の偉業が何故日本書紀に記されていないかを推察しますと、理由は簡単です。彼は北九州倭国の王であり、天皇(大王)は万世一系としている日本書紀の方針に適合しません。このため、倭王武は日本書紀で無視されたと思われます。

また、最近出版されベストセラーになった「日本国紀」(百田尚樹著 2019)ですが、そこでは、倭王武を含む倭の五王はヤマトの王ではないと記述しています。

まとめますと、埼玉県出土の鉄剣碑文に記されたエカタシロ大王は北九州倭国の倭王武とするのが妥当と思われます。しかし、彼は北九州倭国の王であり、万世一系の天皇家があったとする日本書紀の方針に合わず無視されたものと思われます。

もし倭王武が学研まんが指摘のように雄略天皇であったとすると、なぜ、その偉業が日本書紀に掲載されなかったのか、鉄剣碑文に正式名が使われなかったのか等、矛盾だらけになります。こうした矛盾だらけの事柄を学研まんがは紹介していることになります。


次回は、「ヤマト王権の始まりはいつから」について愚考します。



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[ 2021/08/20 09:12 ] 古代史の虚像と書籍 | TB(-) | CM(3)

学研まんが「NEW日本の歴史」、倭の五王はヤマトの王でない問題


学研マンガ、倭の五王の記事


学研まんが「NEW日本の歴史」、倭の五王はヤマトの王でない問題(古代史の虚像と書籍)

小学生向き学研まんが新版「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、新版の内容で、「邪馬台国の卑弥呼の墓は前方後円墳ではなかったこと」について検討をしました。

今回は、「倭の五王はヤマトの王でないこと」について検討します。

新版では、宋の歴史書「宋書」倭国伝に、「倭の五王」が5世紀に朝貢してきたことが記述されていることと関連し、「倭の五王」をヤマト王権の王であると記しております(上の写真記事参照)。しかし、これは次の理由から間違っています。

まず、後の唐時代に編纂された旧唐書では、倭国と日本国(ヤマト)とは別の国であると記してあります。

因みに「唐の時代の正史では倭国と日本国とは別の国である~~大和朝廷の統一2」 によれば次のとおりです。


「倭国は、古(いにしえ)の倭の奴国(なこく)である。都の長安から一万四千里、新羅の東南方の大海の中にある。倭人は山がちの島をねじろとして住んでいる。その島の広さは東端から西端までは歩いて五ヵ月の行程、南北は三ヵ月かかる。代々中国へ使節を通わせている。

…その周辺の小島五十国あまりはすべて倭国に所属している。倭国王の姓は阿毎氏(あめし)で、一人の大将軍を置いて諸国をとりしまらせている。小島の諸国はみなこの大将軍を畏れて服従している。官位は十二等級あり、お上に訴え出る者は、はらばいになって進み出る。…」(訳:講談社学術文庫 『倭国伝』p.206-207)
(引用終了)

旧唐書の内容(引用記事)をまとめますと、倭国と日本国とは別の国で、「倭の五王」は北九州にあった倭国の王と判断するのが妥当と思われます。

その北九州ですが、魏志倭人伝に、邪馬台国の人びとの容貌や習慣は中国海南島の人びとに似ているとありますように、北九州は稲作民族のマレー系(越族)の多いところです。その関係と思われますが、越族の多い中国南朝の国々と交流してきた歴史があったと思われます。北九州「倭の五王」の南朝への朝貢も、これらの流れから見ることができます。

次に、「倭の五王」と日本の正史と言われる日本書紀の関係ですが、日本書紀には「倭の五王」のことは書いてありません。おそらく、日本には一系の天皇が古来より有り、「倭の五王」は倭国北九州の王なので、これは認められないので無視したことと推察されます。

そして、上の引用記事の続きによれば、次のとおりです。


逆に、『旧唐書』の記述に注目した歴史家もいる。

九州に日本を代表する王朝が存在したという古田武彦氏の「九州王朝説」は、日本古代史の謎や矛盾を無理なく説明でき、説得力もあると思うのだが、なぜか日本古代史学会からは黙殺されているようだ。

黙殺されるのは、この説を認めることは今までの古代史研究の成果を否定することに繋がることにあるという点が最大の理由であろう。わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっているとは言えないか。

(中略)
そもそも『日本書紀』は681年に天武天皇の命により執筆が開始され、720年(養老4)に完成した『正史』であるのだが、その編纂の目的は為政者の政治権力に正統性があることを史実として固定化させることにあったはずだ。

したがって、わが国に文字のなかった時代に、天皇家によってわが国が統一され、それからずっとその尊い血筋を引いているという物語を作らせたかったという側面を割り引いて『日本書紀』を読む必要があるのだと思う。7世紀以前の出来事については、中国の正史その他の記録とバランスよく読まないと、古代史の真実は見えて来ないだろう。
(引用終了)

この後半の引用記事をまとめますと、引用記事のとおり、「わが国の古代史学会は『日本書紀』を重視しすぎて、戦前の皇国史観の影響を受けた歴史叙述を今も引きずっている」になると思われます。

すなわち、この「学研まんが」の「倭の五王」も同じ流れになっています。

関連し、最近発刊されベストセラーになった「日本紀」(百田尚樹 2019)には、「倭の五王」はヤマトの王ではいことが明言されています。しかし、その後の新刊図書を見ますと、この日本紀の内容は無視されているのが現状です。

まとめますと、倭の五王はヤマトの王ではなく北九州倭国の王と判断するのが妥当と思われます。そして、新版の学研まんがは事実と異なる内容を紹介していると判断されます。

次回は、「鉄検碑文はワカタケルと読めない問題」について検討します。


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[ 2021/08/13 09:00 ] 古代史の虚像と書籍 | TB(-) | CM(2)

学研まんが「NEW日本の歴史」、卑弥呼の墓の形の問題


学研マンガ、邪馬台国はどこにある


学研まんが「NEW日本の歴史」、卑弥呼の墓の形の問題(古代史の虚像と書籍)

小学生向き「学研まんが」新版「NEW日本の歴史」(2012)が出ております。前回は、新版の内容で、「弥生時代の稲作の普及が早すぎる問題」について検討しました。

今回は、「邪馬台国の卑弥呼の墓は前方後円墳では無かったこと」について検討します。

新版では、「邪馬台国はどこにある?」という表題で(上図参照)、近畿説と北九州説を紹介しています。

そして、近畿説では「箸墓古墳があり、卑弥呼の墓ではないかと考えられています」とあります(下図参照)。

学研マンガ、箸墓古墳

しかし、多くの研究者が指摘していることですが、魏志倭人伝では「卑弥呼の墓は円墳」と記載されているのに対し「箸墓古墳は前方後円墳」で、明らかに魏志倭人伝の記述と違います。

何故、このような明らかに間違っている情報を出すのでしょうか。おそらく、邪馬台国近畿説を説明するための一つと思われますが、無理過ぎます。

拙ブログで何度も指摘していることですが、「邪馬台国は99.9%福岡県にあった」(2015 安本美典)と言われているように、邪馬台国近畿説は100%あり得ません。

さらに、拙ブログで指摘している邪馬台国近畿説の最大問題は、邪馬台国の人びとの刺青等の南方系の風習です。邪馬台国の人びとの風習は中国海南島の人びとに似ていると魏志倭人伝に記載されていますが、この風習は大和(奈良県)ではあり得ません。

邪馬台国近畿説では、なぜか、この問題に触れません。おそらく触れると都合が悪いので無視しているとおもわれますが、こうなると、邪馬台国近畿説は事実を無視した想像の産物で、歴史解説書に乗せるような説にはなりえません。詳しくは「邪馬台国の場所と民族」を参照願います。

まとめますと、「箸墓古墳=卑弥呼の墓」は100%あり得ません。不見識もいいところです。関連し「誤りと偽りの考古学・纏向」を参照願います。

以上のことは、小学生向き「学研まんが」(新版)は、事実でないことを平気で載せている歴史解説書になっていて、小学生に勧める書籍になっていません。残念なことですが、このことは、最近の書籍でも日本の古代史は戦前と変わっていないことを示す実例と言えましょう。


次回は、「倭の五王問題」について検討します。



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[ 2021/08/06 09:14 ] 古代史の虚像と書籍 | TB(-) | CM(5)
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「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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