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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと


日本書紀は創作


歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと(日本書紀は創作)

日本書紀は漢文で記載され、奈良時代(720年頃)に完成し、日本の正史と言われてきました。しかし、それは、天武天皇(在位:673~686年)の要望に従い、現天皇家を敬い、万世一系という内容になっており、その方針に合わない史実は無視するという手法が取られていることを指摘してきました。

今回は、史実だが日本書紀に書かれていない事柄について、さらに検討します。

大きな史実としては、近畿に発生した最初の王家は朝鮮半島由来のツングース系王家であったこと、一方、北九州には邪馬台国・倭国があったことですが、これら2点について日本書紀に書かれていません。

まず、ツングース系王家無視の問題ですが、先にDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で紹介しましたように、天皇家はアイヌ系だという事実です。そのルーツは継体王(在位:507-531年)で、王宮跡、陵墓も確認されています。

しかし、それ以前の大王(天皇)となると、王宮場所不明・陵墓不明ですので、おそらく、継体王以前の大王は、継体王によって滅ぼされ抹殺されたと思われます。その抹殺の証拠にツングース系王家の後継者(末裔)は誰も居ません。

日本書紀では天皇家は万世一系ですので、ツングース系王家のことは触れないようにした。すなわち、無視したものと判断されます。

例えば、ツングース系王家は前方後円墳の巨大古墳をいくつも建造しました。前方後円墳のルーツは朝鮮半島の方墳にあることは明らかです。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

しかし、これら巨大古墳は万世一系の歴代天皇の陵墓に当てはめられ、この結果、ツングース系王家の姿は日本書紀にはまったく触れられていません。

次に、北九州倭国の無視です。

まず、邪馬台国です。魏志倭人伝によれば、その風俗と容貌は中国の海南島の人々に似ているとあり、その他の多くの指摘を合わせますと邪馬台国が北九州にあったことは確かですが、日本書紀には何も書いてありません。おそらく、北九州倭国関係のことは、万世一系の方針に合わないため無視したものと思われます。

また、次に現れた北九州倭国です。倭国の存在は中国の歴史書や朝鮮半島の歴史書や遺跡に認められます。そして、倭王武については、朝鮮半島南部と北九州を支配した王として中国南朝の歴史書に書いてあります。さらには、埼玉県と熊本県出土の鉄剣にも「倭王武」のことが書かれております。しかし、日本書紀では無視しています。

さらには、倭国と唐・新羅連合が争った白村江の戦いがありますが、この戦いは北九州倭国と唐・新羅連合の戦いでした。しかし、日本書紀では日本(倭軍)と唐・新羅の戦いとしています。しかし、その内容は矛盾だらけです。そして、この戦いで北九州倭国が滅びたことも無視されました。

詳しくは「白村江の戦いの真実、日本書紀は創作」を参照願います。

以上のことから想像しますと、中国語のできる日本書紀の編集者は、北九州の邪馬台国や倭国のことは、中国の歴史書に書いてあることであり、当然のことながら知っていた、しかし、日本書紀の方針で触れたくなかったことだったと思われます。

まとめますと、日本書紀は、万世一系の天皇家が日本を統治してきたという壮大な創造物語であり、これに合わないツングース系王家や北九州倭国の存在は否定され、闇に葬られたのが真相と思われます。

関連し、日本書紀が創作であることを、上トップにまとめました。



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[ 2021/10/29 08:04 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(4)

巨大古墳建造の真相と民衆の怒り


巨大古墳建造と民衆の怒り


巨大古墳建造の真相と民衆の怒り(記事まとめ)

前回、朝鮮半島由来ツングース系王家が、いくつもの巨大古墳を建造した結果、民衆の怒りをかい、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ぼされたことを検討してきました。

関連し、今回は、それら巨大古墳が建造された地域(府県)と時代について検討し、民衆の怒りがどのようなものであったか愚考します。

まず、Wikipedia「日本の大規模古墳一覧」によりますと、墳長120m以上の大古墳数と地域は下表の通りです。

府県別大古墳一覧まとめ

大古墳は府県で見ると、奈良に27%、大阪に22%とこれら2府県に偏っています。特に200mを超える巨大古墳は37基ありますが、奈良と大阪の2府県で32基(86%)、関西では35基(95%)となっており、関西特に奈良と大阪に集中しております。

次に半世紀ごとの年代別推移ですが、200m以上の巨大古墳については建造時期がWikipedia で紹介されております。その数値をもとに関西のデータをまとめますと下表のとおりです。

巨大古墳の建造時期と府県一覧

なお、Wikipediaでは大阪の河内大塚山古墳(墳長335m)と奈良の見瀬丸山古墳(墳長318m)は6世紀後半の建造となっています。しかし、これらは天皇陵と関係し、調査は認められておらず、正確な建造時期が確認されておりません。因みに、被葬候補者は、河内大塚山古墳は5世紀中の雄略天皇、見瀬丸山古墳は7世紀後の天武天皇と言われ、いずれも建造時期が6世紀後半ではない可能性もあります。そこで、今回はこれら2基については言及しません。

この表では、3世紀後半から巨大古墳が建造されておりますが、5世紀前半にピークを迎えます。そして、6世紀前半には巨大古墳建造は無くなります。

この流れは、墳長合計から見るとより顕著です。4世紀前半は914mでしたが5世紀前半には3700m(4.0倍)になっています。

これら巨大古墳建造だけでなく120mを超える大古墳も多数あり、かつ小古墳もあるわけですから、これらの事業に動員された人々の数や疲れはたいへんなものだったと思われます。

因みに、奈良の墳長278mの箸墓古墳(はしはかこふん)が3世紀末に建造されましたが、このための建造人員数は、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」 によれば100万人以上と推定されています。

エジプトのピラミッド建設については、作業員の居住場所などが発掘されていますが、世界遺産と言われる仁徳陵古墳については、それらは確認されていません。自分で掘っ立て小屋を作り、風雨に耐えたということでしょうか。また、どれだけの距離を歩いて参加されたのでしょうか。食べ物や衣服は持参だったのでしょうか。まったく不明です。

そして、6世紀前半には、これら巨大古墳建造は突然としてなくなりました。おそらく、民衆の反目や怒りは大きく、民衆を動員できなくなった。そして、ついには、巨大古墳王家は滅び、そうした巨大古墳建造は必要なくなったと思われます。

関連し、拙ブログでは、巨大古墳を建造したのは朝鮮半島由来のツングース系王家と観ていますが、その王家が滅びたと言う理由や証拠には次の3点が挙げられます。

1. 継体王(在位:507-531年)の治世が6世紀から始まりますが、巨大古墳建造中止の時期と一致します。その継体王はアイヌ系であることが最近のDNA研究で明らかになっており、王家が変わったことが考えられます。おそらく、アイヌ系の継体王が中心となって旧王家を滅ぼし、新王家を開始したと思われます。

2. 継体王以前の王(天皇)のことは、初代~25代天皇として日本書紀に書いてありますが、王宮や王墓など確認できる物的証拠はなく不明で創作の可能性があります。おそらく、継体王を初め民衆の怒りは大きく、ツングース系王家の歴史は王陵を除き跡形もなくなるほど抹殺されたものと思われます。

3. 日本書紀には継体王直前の王は25代天皇「武烈王」となっていますが、18歳の若さで亡くなっており、かつ、残玉非道の横暴王であったことが書いてあります。このことは、ツングース系王家は民衆の支持が無く、かつ、武烈王は継体王に若くして滅ぼされたことを暗示しています。

まとめますと、ツングース系王家が行った西日本における巨大古墳建造は、5世紀に数と量で頂点になりましたが、これらは民衆の負担が大きく、その結果、民衆の怒りをかい、6世紀初頭に滅ぼされ、アイヌ系の継体王王家が始まったと結論されます。

関連し、西日本における時代別巨大古墳建造の流れと民衆の怒りについて、上トップ図にまとめました。


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[ 2021/10/22 08:31 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(4)

ツングース系王家とアイヌ系王家の陵墓の違い


陵墓のサイズ、ツングース系家とアイヌ系の違い


ツングース系王家とアイヌ系王家の陵墓の違い(記事まとめ)

前回、朝鮮半島由来ツングース系王家は、巨大古墳を多数建造した結果、民衆の怒りをかい、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)に滅ぼされたこと、そのことは日本書紀には書いてないことを検討しました。

関連し、今回は、ツングース系王家とアイヌ系王家の違いについて、ツングース系王家と現天皇家始まりのアイヌ系王家の陵墓を比較し、その違いから王家が代わったことを愚考します。

まず、継体天皇前後10代の陵墓のサイズを比較します。

日本書紀にある継体王(天皇)以前の天皇名(初代~25代)については実在が証明されていませんが、ツングース系王家とします。そして、25代目の武烈天皇は残虐非道な天皇であり18歳という若さで亡くなったことが日本書紀にありますが、このことは継体王によって滅ぼされた結果とし、その陵墓は不明とします。また、継体王以前の天皇については、巨大古墳以外に確認する方法がありませんので、その時代の奈良・大阪地域の巨大古墳10基を天皇(15代~24代)の陵墓としました。
そのまとめは、下表のとおりです。

継体王前後の陵墓のサイズ

まず、継体王以前のツングース系王家(15~24代)ですが、すべて210mを超える巨大古墳で、おそらく、これらがツングース系王家の陵墓と思われます。

一方、継体天皇の陵墓はと今城塚古墳と認定され、学術調査も進んでいます。その陵墓は全長190mです。その後の天皇の陵墓は小さくなるばかりです。

この表ではツングース系王家は16代の応神天皇から記しておりますが、陵墓はすべて前方後円墳で墳長平均は290mです。一方、継体天皇からのアイヌ系王家ですが、前方後円墳は26代~30代の5代で終わります。その墳長平均は141mで、ツングース系王家の半分以下です。そして、31代から方墳となっていて、辺の全長は40~60mです。

以上の違いは何を意味するのでしょう。次の2点考えられます。

まず、1点目は、巨大古墳建造は民衆を疲弊させ、民衆の反感をかい、ツングース系王家は滅亡し、新たなアイヌ系王朝が始まったことが考えられます。

2点目は、新たなアイヌ系王家には、その民族の特徴として巨大古墳への憧れは弱かったことが考えられます。


なお、アイヌ系以前のツングース系王家については、どのような統治をしていたのか、外交はどうだったのかなどなど不明なことばかりです。巨大古墳を多数建造した実績からして、動員態勢など統治はそれなりにあったものと推察されます。

しかし、ツングース系王家の政治には残虐非道な統治もあり、民衆の憎しみも深く、王宮跡などツングース系王家に関連するものは陵墓を除き完璧に破壊されたのではないかと思われます。

一方、その時代の仁徳天皇は慈悲深い天皇だったという逸話が残っています。しかし、これは平安時代にできた逸話と言われ、事実でない可能性の方が高いと思われます。

その理由として、仁徳天皇の子孫はまったく不明です。おそらく、ツングース系王家とアイヌ系王家、この対立は民族対立を含んでいましたので激しいものがあったことが想像されます。負けたツングース系王家は否定され、抹殺された可能性は否定できません。

このような王家抹殺事例は、世界史で見るならば、いくつもあったことが知られています。

以上、関連し、継体王前後の陵墓の違いを上トップ図に示しました。



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[ 2021/10/15 11:23 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(2)

日本書紀と空白の4世紀の関係愚考


古代の朝鮮半島・日本の歴史


日本書紀と空白の4世紀の関係愚考(日本書紀は創作)

日本の古代史では、1~2世紀に倭の奴国王などの小国分離時代、3世紀に邪馬台国時代、5世紀は北九州では倭の五王、一方、畿内では巨大古墳建造時代、6世紀は継体王(在位:507-531年)時代が知られています。そして、4世紀は、日本(倭国)のことは中国の歴史書から消え、空白時代とも言われます。

今回は、この空白の時代と言われる4世紀の古代史を、日本書紀との関連で愚考します。

まず、関連の歴史経過表を地域別に上トップに示しました。

そして、空白の4世紀ですが、朝鮮半島南部では百済と新羅が建国されています。

一方、倭国については、高句麗の広開土王碑文があり、4世紀末に倭国が百済と連合し高句麗と戦ったとあります。百済と倭国は中国南部の越族に由来する稲作民族のマレー系の国、百済と倭国が連合するのは同じ民族の絆があったためと思われます。詳しくは「古代の朝鮮半島の民族と国家」を参照願います。

また、畿内のヤマト政権ですが、4世紀、この国に関する情報は、巨大古墳建造以外、まったくありません。古代遺跡発掘情報では、3世紀に作られた200mを超える巨大古墳(前方後円墳)の纏向遺跡があり、4世紀には多数の巨大古墳が建造されています。

おそらく、その古墳の形状から、それらの巨大古墳は朝鮮半島由来のツングース系の王家が作ったものと思われます。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

そして、5世紀には奈良にあった王家は拡大し、中心地を海岸近くの大阪に移動し、さらに大きい巨大古墳を建造しました。いわゆる仁徳天皇陵(全長486m)です。これは、面積で世界最大規模、国家的事業と思われます。これには、縄文系由来のアイヌ系やマレー系の人々が多数動員されたものと推察されます。

古墳建造に動員された多数のアイヌ系やマレー系の人々は、これに怒り、ツングース系王家を滅ぼしたと推察されます。この中心人物はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)で、この王家は現天皇家であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類で明らかになりました。

おそらく、ツングース系王家が滅ぼされたとき、その戦いは、巨大古墳建造への憎しみだけでなく民族の違いも重なり、憎しみは大きく、ツングース系王家の宮殿や歴史は完璧に破壊されたのではないかと思われます。

その結果、巨大古墳建造時代の4世紀と5世紀に残ったものはツングース系王家の巨大古墳だけとなりました。このとき、偶然にも、ツングース系王家というものは、諸外国との交易もなく、諸外国の歴史にも残らなかった、すなわち、空白の時代となったと推察されます。

しかし、このことは日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。日本書紀には、現天皇家は万世一系という編集方針があり、ツングース系王家があったことは北九州倭国と同じように無視しています。

まとめますと、空白の時代と言われる4世紀、北九州には倭国、畿内にはツングース系王家ありました。しかし、それらの歴史については日本書紀では無視しています。その理由は簡単で、日本書紀は、現天皇家は万世一系であるという方針で書かれており、それに適合しない北九州倭国とツングース系王家については無視したと判断されます。

これらのことからも、日本書紀は歴史的事実を無視した創作の書(フイクション)であると結論されます。


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[ 2021/10/08 10:48 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(2)

倭王武はなぜ評価されていないのか


倭国とヤマト朝廷の関係(5世紀)


倭王武はなぜ評価されていないのか(記事まとめ)

日本の国家の成り立ちについて検討してきました。そして、北九州にあった倭国に倭王武が現れ、朝鮮半島南部も支配するような大きな国家を5世紀に作ったことを何度か紹介してきました。

しかし、倭王武については、日本書紀に記載されていないこともあり、扱いが小さい感じがします。

関連し、今回は、倭王武について、「倭王武はなぜ評価されていないのか」について記事まとめをします。

まず、倭王武ですが、Wikipediaの『宋書』列伝によれば次のとおりです。

夷蛮伝 倭国の条(宋書倭国伝)では、兄の興が死んで弟の武が王に立ち、武は「使持節 都督倭・百済・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓七国諸軍事 安東大将軍 倭国王」と自称したとする[2][3]。

また順帝の昇明2年(478年)には、武は宋に遣使して上表文を奉り、これに対して順帝は武を「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 安東大将軍 倭王」に除すことを詔したとする[2][3]
。(引用終了)

引用記事を要約しますと、倭王武は、都督倭(倭国)、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓の六国を支配する王「安東大将軍 倭王」になることを、宋の順帝から478年に認められました。秦韓、慕韓の国については場所がはっきりしませんが、新羅と加羅の近くにあった朝鮮半島内陸部の国のようです。

また、この倭王武の支配地域に百済が入っていません。これは、倭国と百済は同じマレー系の兄弟国として協力していた関係があったためと思われます。詳しくは「百済はマレー系海洋系民族の国であった」を参照願います。

そして、倭王武は、もともとは百済の王子であり、百済と倭国が協力するため倭国に派遣された関係があり、任務を終え、北九州倭国から百済に戻り、百済の部寧王になったという説がありますが、それは史実に近いと思われます。因みに、百済の部寧王は大百済時代の中心人物で、その王墓からは多数の国宝級宝物が出土したことで有名です。

一方、倭国(北九州)における倭王武の王墓は不明で、おそらく、その説「倭王武=部寧王」を正しいとすると王墓は朝鮮半島にあることになります。詳しくは「倭王武は百済の武寧王になった」を参照願います。

なお、北九州倭国について、何度も述べてきましたように、日本の正史と言われる日本書紀に記載されていません。そして、中国の歴史書(宋)にある倭の五王は、大和朝廷の王であり、それぞれの倭の五王に同時代の大和朝廷の天皇を強引に当てはめている報告もあります。

しかし、近刊の「日本国紀」(2018 百田尚樹)は、それらの名前は日本書紀にもないこと、倭の五王の名前と天皇名が一致しないことから、従来の説は「こじつけ」で、ヤマト朝廷の王でないと述べています。

そこで、日本書紀は、この大王を何故記載しなかったのかという疑問が残ります。おそらく、日本書紀には、天皇家は万世一系という編纂方針があり、これに合わない北九州倭国の存在は認められないということだと思われます。すなわち、倭の五王を認めると、北九州にあった倭国を認めざるを得なくなり、日本国は万世一系ではなくなります。

まとめますと、北九州倭国に、朝鮮半島南部をも支配する大王の倭王武が現れましたが、日本書紀の編集方針に合わないため無視されたと推察されます。このことからも、日本書紀は創作の書(フィクション)であったと思われます。

関連し、5世紀の倭国と大和朝廷(当時はツングース系王朝時代)の支配地域について上トップに示しました。



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[ 2021/10/02 20:28 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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