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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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奈良と大阪がなぜ古代日本の中心となったのか


奈良への道(4世紀)


奈良と大阪がなぜ古代日本の中心となったのか(記事まとめ)

巨大古墳が奈良と大阪に集中していることは知られているところです。まさに、奈良と大阪は古墳時代の中心地だった思われます。

しかし、大陸文化導入については北九州の方が近い位置にあります。事実、北九州にある奴国や邪馬台国が大陸と交易し、先に発展していたことは歴史的事実です。

関連し、今回は、中国から遠く離れた奈良と大阪が、なぜ古墳時代の中心地になったのかについて愚考します。

まず、古墳時代以前の縄文時代と弥生時代遺跡ですが、近畿と周辺の各県遺跡数は下図の通りです。

近畿と周辺の各県縄文時代遺跡数

近畿と周辺の各県弥生時代遺跡数

これらの図から、北陸、東山、東海は縄文時代遺跡が多く、縄文系の人々が多かったと推察されます。

一方、近畿以西の西日本は、縄文遺跡が少なく弥生遺跡が多く、弥生時代に人口が増えたと推察されます。これら弥生系の人々は、朝鮮半島由来の農耕民族で、持参した鉄器を持ち込み水田稲作や畑作を行い食料が増え、人口が増大したと思われます。

弥生時代の発展度合いを示す指数として、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数比」を使いますと、下図のとおりです。すなわち、縄文系の多かった北陸、東山、東海は停滞し、一方、近畿以西は発展したと判断されます。

近畿と周辺の各県「弥生時代・縄文時代」遺跡数比

府県別に見ますと、香川の数値が以上に高い値になっています。これは、縄文時代遺跡数が極端に少なかったために大きくなった数値ですので、例外的とみることができます。次に大きいのが大阪、次いで岡山です。弥生時代、大阪は中心地の一つであったと理解できます。

次に奈良について見ますと、内陸県のためか、水田稲作適地は少なく弥生時代遺跡数が少ない傾向があります。しかし、他の内陸県で縄文系の多かった長野、岐阜と比較しますと、「弥生時代遺跡数/縄文時代遺跡数比」の値は奈良で明らかに高く、奈良も内陸ながら発展した様子が伺えます(下図参照)。

近畿周辺内陸県の「弥生時代・縄文時代」遺跡数比

以上の経過から見ますと、奈良と大阪の地は近畿地域の中心地として、鉄器を持参したツングース系の人々によって農業が発展し、食料が増え、人口が増えたと判断されます。

そして、その地域にできた王家は近畿・東海・東山地域を支配することに成功し、それらの中心地の奈良を選んで最初ツングース系王家を創設したと思われます。それは纏向遺跡ですが、その象徴的モニュメントとして、当時3世紀としては巨大な墳長278mもある箸墓古墳が建造されたものと理解されます。

その箸墓古墳ですが、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」によれば、建造人員数は次のとおりです。

古墳造営に要する労働力の算定については幾つかの試みがなされているが、箸墓の土量を30万m3として,1m3の築成 について3.5人で1日 を要す る とする と、延べ100万人、これに葺石、石 室 の構 築、作 業 貝の供与、施設等 に要する人員をさ らに加 算 しな ければならない。(引用終了)

すなわち、100万人以上の動員がありますが、これをできるのは強い王権があったことを示唆します。そして、この地、纏向に最初のツングース系王家の宮殿が建設され、ここが畿内最初の王権の始まりと思われます。

なお、箸墓古墳は、奈良県桜井市にありますが、ここは奈良盆地中央部にあり、三重県、滋賀、大阪、和歌山の中心地にあります。遺跡調査によれば、当時は人口の少ない田舎だったようですが、箸墓古墳建造に当たっては、人を集めやすい場所として選ばれた地理的背景があったと思われます。

そして、同時に、王家に続く道ができたと思われます。当時の宮殿と思われる纏向遺跡が発見されましたが、これら王家への道を通って人や物資が往来したことが感じられます。

その後、墳長200m以上もある巨大古墳の建造が大阪に移るまでの150年(250~400年)間に12基建造されました。これらの結果、奈良の地は道路もさらに整備され、畿内の中心地になっていったと思われます。

続いて、大阪が中心地になります。この中心地の移動は、拙ブログではツングース系王家支配地の拡大の結果と観ています。すなわち、この時期(400~500年)、馬の飼育場があったこと、また、馬も乗せることができる大型の構造船もあったことが知られております。

こうした馬や構造船を使い、その支配地は中国、四国、九州の東岸まで及んだと推察されます。その結果、中心地は海に面した大阪に移動したのではないかと思われます。詳しくは「馬とツングース系王家」を参照願います。

まとめますと、奈良と大阪の地はもともと縄文人の少なかったところでしたが、ここに移住してきたツングース系民族は、持参の鉄器を使い農産物の生産を行い人口が増え、王家を開いたと結論されます。そして、その王権は巨大古墳を多数建造し、人や物資が往来し、道ができ、畿内の中心地になっていったと推察されます。

関連し、この様子を上トップ図に示しました。

なお、近畿のツングース系王家と先進地の北九州の関係ですが、次のようであったと思われます。

まず、北九州では、邪馬台国が滅んだあと、倭国が登場します。倭国は、百済と共同して高句麗と戦ったことが分かっていますので、南方系稲作民族マレー系の国だったと推察されます。そして、近畿のツングース系王家とは戦わず、並立していた時代と思われます。

また、朝鮮半島の民族の経過から、倭国は百済、一方、近畿のツングース系王家は同じくツングース系の新羅と関係があったと推察されます。しかし、倭王武の時代(5世紀)、新羅は倭国の属国の地位にあり、新羅とツングース系王家の関係は強力では無かったと思われます。

詳しくは「古代の朝鮮半島の民族と国家」、および「古代日本列島の民族と日本統一の経過」を参照願います。



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[ 2021/11/25 20:27 ] ブログの概要(記事まとめ) | TB(-) | CM(2)

縄文思想は何故残ったのか愚考


日本人の縄文思想の確立経過


縄文思想は何故残ったのか愚考(縄文思想と日本人)

前回、日本語のルーツはアイヌ語であること、それは現天皇家初代の継体王(在位:507-531年)がアイヌ系でありアイヌ語を使ったことにあることを検討しました。

一方、日本人には独特の宗教や思考様式があることが知られております。例えば、自然のあらゆる物に神を感じる思想、自然との共生思想などがそれに当たります。神社信仰もこの流れにあると言われます。

そして、これらの精神文化は1万年以上も続いていた縄文時代に育まれたものであることが一般に指摘されています。拙ブログでは、これを縄文思想として検討してきたところです。

しかし、日本の古代史では、採集経済の縄文時代の後に、鉄器と稲作をベースにした弥生時代が到来しました。弥生時代は、高生産性の稲作農業が中心にあり、現日本のベースを作ったと言われます。

その弥生時代集落の人骨分析から、弥生人は朝鮮半島由来の長身のツングース系民族が主体だったと言われ、縄文人は農耕に不適地の北と南の地に追い払われたとも過去には言われました。

現在では、縄文人は弥生人を受け入れ、縄文人はもともとの中山間地に住み、弥生人は農耕に適した平地に住み、平和裏に融合が進んだと言われております。しかし、弥生人が権力者であったことに変わりありません。

その権力者の象徴的遺物は、奈良と大阪に建造された巨大な古墳であり、それら建造物のルーツは朝鮮半島にあることは言うまでもありません。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

そこで、現在の日本人の思考様式について検討しますと、日本人に弥生人の影響は感じられません。そして、縄文時代の思考様式だけが残っており、何故そうなったのか疑問が出てきます。

前置きが長くなりましたが、今回は、ツングース系民族が支配した激動の弥生時代と古墳時代を経た後でも「日本人の縄文思想はなぜ残ったのか」について愚考します。

結論から先に言いますと、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)がツングース系王家を滅ぼし支配者になったため、もともとのアイヌ系の縄文思想や思考様式が主流になったことと思われます。

まず、弥生時代ですが、朝鮮半島からツングース系民族(弥生人)が移入してきました。最初、縄文人の少なかった中国地方や近畿の低地に入り、持参した鉄器で農耕を行い、食料が増え人口が増えました。そして、そうした生産力を背景に王家が生まれ、巨大古墳建造が始められました。巨大古墳建造には多数の人員が必要であり、中山間地に居た縄文系の人々が多数動員されたと推察されます。

古墳時代になると、縄文系の人々も鉄器を入手し農耕をしていたと思われますが、農耕開始が遅かった問題があります。すなわち、水田稲作適地の平野部は弥生時代からのツングース系の人々に占有され、残された場所はもとから住んでいた中山間地であり、生産性は低く、厳しい時代が続いていたと思われます。

なお、中山間地の水田稲作問題については「山間地水田の漏水問題と平野部への展開」を参照願います。

以上のことから、縄文系の人々は弥生系の人々とは住む場所が異なっていましたが、集落をまとめる族長は居て、ツングース系の人々と交易し、古墳建造にも協力もしていたと推察されます。

そこで、アイヌ系の英雄「継体王」の登場経過について愚考しますと、次のようなことが考えられます。

まず、彼は福井のアイヌ系の出身者であり、次第に支持者が増え、縄文系をまとめる強力な族長になりました。そして、他地域のアイヌ系や縄文時代から居たマレー系の仲間と族長連合し、古墳建造等で民衆の怒りが頂点に達したのを見てツングース系王家を滅ぼしました。

その結果、支配の本拠地だったツングース系の王宮は焼き払われ、古墳を除き、ツングース系のものは低地水田を含め、すべて縄文系の人々に奪われたと思われます。ツングース系王家については、その存在すらも否定されるに至ったと思われます。

一方、それらを略奪した者は、継体王を含めアイヌ系の豪族が主体と思われますが、彼らは略奪者であり、その行為は恥ずべきものであった。このため、これらの事件について、後の日本書紀、古事記、風土記等の書物に残せなかったのが真相と思われます。

また、何故古墳だけが残ったのかですが、それらはアイヌ系の人々にとって価値のないもの、労力をかけて壊す価値のないものだったためと思われます。

そこで、本題の縄文思想がなぜ残ったのかですが、古墳時代も縄文思想は縄文人(アイヌ系)集落に残っており、アイヌ系の継体王が大王になると、それが中心思想になったと思われます。

関連し、儒教や、仏教の教えが入っている聖徳太子作成と言われる17条の憲法ですが、「和」の重視が一番目に入っています。「和」は、自然との共生とも関連し、縄文思想の一つと思われます。聖徳太子は継体王のひ孫にあたり、アイヌ系ですが、彼が、このような思想を持っていることは、王家がツングース系王家からアイヌ系王家に変わったことを暗示していると思われます。

なお、聖徳太子の17条の憲法について詳しくは「聖徳太子の17条の憲法と縄文思想」を参照願います。

まとめますと、縄文時代由来の日本人の縄文思想は、弥生時代、古墳時代も縄文人集落で続いており、アイヌ系の継体王がツングース系王家を滅ぼし、新王家を開始した結果、主要な思想になったと結論されます。

関連し、それらの経過を上トップ図に示しました。

なお、このような「縄文思想と日本人」に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリから「縄文思想と日本人」を選びクリックしますと、関連の記事を見ることができます。



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[ 2021/11/18 21:48 ] 縄文思想と日本人 | TB(-) | CM(1)

日本語の成立とアイヌ系王家との関係


日本語のルーツと継体王


日本語の成立とアイヌ系王家との関係(日本語のルーツ)

最近のDNA研究は、現天皇家はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に始まることを明らかにし、これまで曖昧模糊としていた日本古代史の中心人物を明らかにしました。

関連し、今回は、日本語とアイヌ語の関係について、再度、愚考します。

まず、日本語のルーツはアイヌ語にあることは明らかです。詳しくは「日本語のルーツはアイヌ語とマレー語」を参照願います。

しかし、何故、アイヌ語が日本語のルーツになったのかについては曖昧でした。単純に、アイヌが先住民族であったこと、アイヌ系の人々が多数であったこと、そして、新しく日本に渡来してきたマレー系やツングース系の人々がその言葉に従ったためと、漠然と考えられてきました。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、現代人の35%がアイヌ系、30%が南方系のマレー系、25%が朝鮮半島由来のツングース系、10%がその他となっていて、アイヌ系が絶対多数ではなく、すっきりしない点もあります。

また、支配者の言葉が、その国言葉になることも多くあります。因みに、新大陸と言われるアメリカの言語は、移住し支配者となった人々の言語、すなわち北米では英語、南米ではスペイン語等に変わりました。

そこで、日本の中心部の古代近畿地域の支配者ですがで、最初の支配者となったのは朝鮮半島由来のツングース系民族でした。彼らは、弥生人とも言われ、鉄器を導入し、それらを使い稲作や畑作の農耕を始め、人口が増えました。そして、その生産力を背景に王家が誕生し、そのツングース系王家は巨大な古墳をいくつも建造しました。

この巨大古墳建造王家は、最初の巨大古墳の箸墓古墳が建造された3世紀後半に始まり、アイヌ系の継体王によって滅ぼされた5世紀初頭(507年頃?)までの約250年間続いたと思われます。当然のことですが、このとき使われたのは支配者の言語、すなわち、ツングース系言語だったと推察されます。

しかし、この言語は残っていません。強いて探せば、大阪弁に朝鮮半島の釜山方言の雰囲気があることだけでしょうか。詳しくは「朝鮮半島のツングース系言語と関西弁の関係」を参照願います。

ツングース系言語が消えた理由は単純で、支配者がアイヌ系の継体王に代わったことが最大の理由です。このとき、ツングース系弥生人とアイヌ系縄文人の民族対立が絶頂になったときと推察され、その争いの結果、ツングーケイ王家の歴史は抹殺され、古墳を除いて他は何も残らなかったのが真相と思われます。すなわち、このときツングース系言語も抹殺されたと思われます。

想像しますと、当時のツングース系民族とアイヌ系民族の住み分けですが、つぎのようであったと推察されます。当時はツングース系王家時代ですが、地方では部族社会であり、低地水田稲作地域ではツングース系言語が、アイヌ系がもともと住んでいた中山間地域ではアイヌ語が使われていたと思われます。

そして、ツングース系が支配していた低地水田作地帯は豊か、アイヌ系の居た中山間地は稲作適地が少なく畑作中心で貧しかったと思われます。この対立に、古墳建造の労役に対する憎しみが加わり、それらの怒りは頂点に達し、アイヌ系は立ち上がったと予想されます。

そして、アイヌ系の継体王が支配者になると、ツングース系の支配していた低地はアイヌ系に奪われたと想像されます。さらには、ツングース系の言葉を話す人々はツングース系王家関係の者とし嫌われ、弾圧され、その結果、ツングース系言語は使われなくなったのではないかと思われます。

それらの結果、マレー系倭国のあった北九州地域を除き、新しく王家となったアイヌ系王家のアイヌ語だけが日本では残ったと推察されます。

一方、日本語の発音ですが、これはアイヌ系の発音と異なります。そこで、調べますと、最初に使われた表音文字の万葉仮名の読み方と日本語は一致します。そして、その読み方はマレー語と一致しています。おそらく、万葉仮名を導入する過程でマレー語の発音様式が導入されたと思われます。

その歴史的過程には次のようなことが考えられます。

まず、ツングース系王家を滅ぼした後、継体王は、マレー系国家の百済と外交を行い、その後、仏教の経典や万葉仮名を百済から導入しました。

当時、百済は中国南方由来のマレー系の国家であり、その関係から呉国等の南方の国と交流があり、そこから仏教の経典を取り寄せました。その結果、漢字には南方読みと北方読みの2種類がありましたが、百済の導入した経典は南方読み、そして、日本は南方読みを導入したことになります。

また、漢字の使い方には、外国の地名や人名などを示すために音節だけ利用する方法があることは知られていることです。この方法として導入されたのが万葉仮名ですが、日本の万葉仮名の読み方はマレー語に一致します。これは、百済ではマレー系の言語が使われていたためと思われます。詳しくは「万葉仮名とマレー語発音の一致」を参照願います。

関連し、百済の日本読み方は「くだら」ですが、中国語や韓国語ではそのように読めない謎がありました。関連し、拙ブログでは、くだら(Kudara)はマレー語で兄弟という意味で、おそらく、同じマレー系の北九州倭国の人々が使い、日本に広まったものと提案しております。詳しくは「古代国家「くだら」の国名由来」を参照願います。

まとめますと、日本語のルーツはアイヌ語ですが、それは、現天皇家の祖先の継体王がアイヌ系であり、ツングース系王家を滅ぼしたとき(507年?)からアイヌ語が全国的に使われるようになったためと思われます。一方、日本語の発音は、その時代、マレー系発音の万葉仮名(漢字)を導入する過程で、マレー語と一致する発音となったものと思われます。

関連し、以上の経過を上トップ図に示しました。

なお、このような日本語のルーツについて関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリ欄から「日本語のルーツ」を選びクリックしますと関連の記事を見ることができます。



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[ 2021/11/12 09:35 ] 日本語のルーツ | TB(-) | CM(2)

日本書紀の初代~25代の天皇存在愚考


日本書紀における継体王以前の天皇名は創作か


日本書紀の初代~25代の天皇存在愚考(日本書紀は創作)

アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が、奈良・大阪に作られたツングース系王家を滅ぼし、新たな王家(現天皇家)を始めたこと、すなわち、継体王は現天皇家の初代に当たることを検討してきました。

これは最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果ですので、歴史的事実と思われます。しかし、現天皇家が先住民族のアイヌ系であることは、日本の正史と言われる日本書紀(720年完成)には書いてありません。代わりに、万世一系の方針のもとに、継体王以前に25代の大王(天皇)が居たことになっています。

関連し、今回は、継体王以前の大王がどのように創られたのか愚考します。

まず、継体王以前の大王は、初代の神武天皇に始まり25代の武烈天皇で終わります。そこで、何故、25代なのかですが、これは、奈良・大阪に建造された巨大古墳の数とほぼ一致します。おそらく、これら巨大古墳の数と一致するように25代の天皇は作られたものと思われます。

詳しくは「初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考」を参照願います。

そして、これらツングース系王家は最初の巨大古墳の箸墓古墳(3世紀末)に始まり、継体王の王家が始まる507年に終わったとすると、その王家は約250年間続いたと理解されます。平均すると1代当たり10年になりますが、この数値は極めて実際的で妥当で、巨大古墳の数の一致と合わせて考えますと、これら25代の天皇はツングース系王家の大王と判断しても問題ない感じです。

次に、日本書紀における歴代天皇の在位期間(年数)についてWikipediaの記事を基に在位年代をまとめますと、下表のとおりです。

日本書紀における初代~26代天皇と陵墓

以上の表から、日本書紀における現天皇家の始まりはBC522年頃となります。これは明らかに、大国で先進国だった中国の歴史を意識して、日本は中国に対抗できる歴史ある国と主張したものと思われますが、当然、事実ではありません。 
 
つぎに、上記引用の「初期天皇と実在する巨大古墳との関係愚考」を使い、歴代天皇の王陵(古墳)建造時期を上表の右側に示しました。

まず、初代神武天皇の陵墓は最初の巨大古墳の箸墓古墳になりますが、この建造年は3世紀末、神武天皇の在位開始年はBC522年ですので、言うまでもなく日本書紀の記述は創作です。

また、世界遺産の仁徳天皇陵(大仙陵)は建造年が5世紀前半ですが、仁徳天皇の在位年が日本書紀では374~460年であり、その後、建造されたとなると建造年が5世紀後半になると想定されますので、実際の建造年と異なります。

関連し、天皇陵建造年と天皇の崩御年が一致している天皇は、仁徳天皇後の17代履中天皇からとなります。

ここから想像しますと、継体王以前の大王(天皇)は、17代~25代についてはそれらの天皇名と陵墓建造時期は合っている感じです。

まとめますと、日本書紀は初代天皇が紀元前500年以上前から存在していたことになっており、明らかに在位年数や年代について創作の産物です。しかし、天皇名や天皇数については実在したツングース系王家の大王(天皇)と観ることも可能です。

関連し、日本書紀と天皇の関係について、上トップ図に示しました。



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[ 2021/11/05 08:15 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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