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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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日本の古代史は戦前と変わっていない状況


有機菜園キウイ10月


日本の古代史は戦前と変わっていない状況(ごあいさつ)

年末となりました。ついては年末のご挨拶をさせていただきます。

今年は、記事アップが1週間に1回というスローペースになりましたが、皆さんのご支援のおかげで続けることができました。

今年力を入れたのは、「日本の古代史は戦前と変わっていない」という大問題の検討でしたが、現状はまったく変わっていない感じです。

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、現天皇家はアイヌ系だということを明らかにしました。そして、それは継体王(在位:507-531年)に始まったということを拙ブログでは検討してきました。

これらの発見は日本の古代史を変える大ニュースと思われますが、そのことを指摘している古代史書籍や古代史ニュースは残念ながら見つかりません。少なくとも、これが事実として認識できるなら、古代史は大きく変わらざるをえません。

まず、古代ヤマトの王家は朝鮮半島由来のツングース系王家から先住民族由来のアイヌ系王家(継体王)に変わったことになります。すなわち、継体王の前の25代に渡る天皇はツングース系王家の大王となります。そして、日本書紀と古事記にある神武天皇とかヤマトタケルの存在は完全な創作となります。

一方、拙ブログでは、日本書紀と古事記にある海彦・山彦神話、そして、出雲大社由来神話について、日本古代史の事実を暗示している内容であることを検討しました。

また、その意味で、日本書紀と古事記は、創作であるが、荒唐無稽なことが書かれているのではなく歴史的事件を暗示している内容が描かれていると判断されます。

「日本の古代史は戦前と変わっていない」、そして、日本書紀と古事記の暗示する内容、これらの問題は重要であり、来年も追及したいと思っています。

なお、上と下の写真は、無農薬、無耕起、無堆肥という縄文農法を続けている我が菜園の果樹の様子です。キウイとカボスですが、縄文農法でも立派な果樹が採れることが分かりました。

有機菜園カボス12月カボス


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[ 2021/12/29 14:35 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(7)

出雲の国譲り神話と出雲大社の関係愚考


オオクニヌシの国譲り神話と出雲大社の関係


出雲の国譲り神話と出雲大社の関係愚考(日本書紀は創作)

前回、出雲はヤマトのツングー系王家発祥の地であったことを検討しました。

一方、出雲には、多数の神話が古事記や日本書紀に残されています。特に、古事記には、その30%が出雲関係と言われ、日本古代史を検討する上で重要な地であると言われております。

関連し、今回は、「出雲の国譲り神話と出雲大社の関係」について愚考します。

なお、本記事については「葬られた王朝、古代出雲の謎を解く」(梅原猛 2010、下写真参照)を参考にし、さらに踏み込みました。

葬られた王朝(梅原猛著)

まず、古代史関係主要神社として、高千穂、伊勢、出雲が知られております。高千穂は天孫降臨の地、伊勢は神武天皇が旧ヤマト勢力を攻めるために上陸した地、また、天皇と初めて名乗った天武天皇が壬申の乱で勝利を祈願した地として知られております。そのためか、伊勢神宮には現天皇家の祖神のアマテラスが祭られています。

関連し、ヤマト(奈良)の地には大和(おおやまと)神社があり、この神社も同じくアマテラスを祭っていますが、伊勢神宮に次ぐ神社とされています。おそらく、ヤマトの神社はツングース系王家の都があったところの神社であり、伊勢神宮の方が現天皇家ゆかりの地としては相応しい位置にあるためだと思われます。

しかし、出雲大社については、実際の歴史的事件は無く、歴史的意味は不明です。

そこで、出雲大社について調べますと、祭っている神様は、因幡の白兎で有名な大国様(オオクニヌシ)です。そして、オオクニヌシ(大国主神)について調べますと、Wikipediaによれば次のとおりです。

須佐之男命から大国主神までの系図(『古事記』による)。青は男神、赤は女神『古事記』・『日本書紀』の異伝や『新撰姓氏録』によると、須佐之男命(すさのおのみこと)の六世の孫、また『日本書紀』の別の一書には七世の孫などとされている。父は天之冬衣神(あめのふゆきぬのかみ)、母は刺国若比売(さしくにわかひめ)。また『日本書紀』正伝によると素戔鳴尊(すさのおのみこと)の息子。日本国を創った神とされている。

須佐之男命の娘である須勢理毘売命(すせりびめのみこと)との婚姻の後にスクナビコナと協力して天下を経営し、禁厭(まじない)、医薬などの道を教え、大物主神(おおものぬしかみ)を祀ることによって葦原中国(あしはらのなかつくに)の国作りを完成させる。だが、高天原(たかあまのはら)からの天照大御神(あまてらすおおみかみ)の使者に国譲りを要請され、対話と武力を交えた交渉の末に幽冥界の主、幽事の主宰者となった。国譲りの際にかつて須佐之男命から賜って建立した「富足る天の御巣の如き」大きな宮殿(出雲大社)を修復してほしいと条件を出したことに天津神(あまつかみ)が同意したことにより、このときの名を杵築大神(きづきのおおかみ)ともいう。

大国主神を扱った話として、因幡の白兎の話、根の国訪問の話、沼河比売への妻問いの話が『古事記』に、国作り、国譲り等の神話が『古事記』と『日本書紀』に記載されている(但し、『日本書紀』では「大国主神」という神名ではない)。『出雲国風土記』においても多くの説話に登場し、例えば意宇郡母里郷(現在の島根県安来市)の条には「越八口」を大穴持命が平定し、その帰りに国譲りの宣言をしたという説話がある。 また山陰、四国、近畿、三遠信、北陸、関東など広範囲における地方伝承にも度々登場する。
(引用終了)

以上、オオクニヌシについて、まとめますとつぎのような感じと思われます。

オオクニヌシは農業の神であり、日本をコメの実る豊かな国にした。しかし、アマテラス(現天皇家)に、その国を譲れと要求され、譲らざるを得なかった。そして、国譲りをした後は、出雲大社を建ててもらい出雲の国に残り、亡くなった。

一方、アマテラスですが、その後を継いだのがニニギ、その三男が山彦、その2代目が天孫降臨をして神話の世界から抜け出した神武天皇です。すなわち、アマテラスの末裔(現天皇家)は、国譲りをしてもらい、かつ、繁栄しているというのが神話の結末になります。

そこで、この神話が、何か歴史的事件を暗示しているのではないか検討しますと、オオクニヌシは日本で農業を始めたツングース系王家、それを譲ってもらったアマテラスは現天皇家とすると歴史的事実と合致します。

まず、日本国は、ツングース系民族が農業(特に稲作)を開始し、人口が増え、国作りをしました。その国をアイヌ系が奪い、新たなアイヌ系王家(現天皇家)を作りました。そのアイヌ系王家の始まりは継体王(在位:507-531年)であることが、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から明らかになりました。

しかし、ツングース系王家を滅ぼし、農地を含め略奪したことはアイヌ系王家にとって恥ずべき行為でした。そこで、せめて、神話の世界になるが、国譲りは大きな争いもなく行われたことにしたいということが日本書紀には感じられます。しかし、その恥ずべき行為が許されるわけではなく、ツングース系王家の恨みは残ったままで、祟りが起こる可能性が否定できません。

関連し、上記書籍の梅原猛の解説ですが、神社は鎮魂の場所、死んだ者が現世を恨んで生き返って来ないように魂を癒す場所として設立されている場合が多いとあります。

その典型的事例が太宰府天満宮です。大宰府に流され亡くなった菅原道真ですが、菅原道真が亡くなった後、いろいろな転変地変が起こり、菅原道真の祟りと畏れられました。そこで、彼の鎮魂のため大宰府天満宮を建てたと言うのは有名な話です。

この梅原猛の解説を当てはめますと、出雲のオオクニヌシはツングース系王家のことであり、その祟りを畏れ、出雲大社を造り鎮魂することになった。場所は、ツングース系王家誕生の地である出雲にしたというのが真相でないかと思われます。

以上、まとめますと、アイヌ系王家はツングーケイ王家を滅ぼし、その財産を略奪しましたが、このことから、祟りを畏れ、ツングース系王家鎮魂のためにツングース系王家発祥地の出雲に出雲大社を作ったのが出雲大社の由来と思われます。

関連し、出雲大社の由来を上トップ図に示しました。


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[ 2021/12/23 17:25 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(8)

出雲国はヤマトのツングース系王家の始まり愚考


出雲四隅古墳のルーツは高句麗


出雲国はヤマトのツングース系王家の始まり愚考(西日本の古代)

前回、日本の神話と古代史の関係について検討しました。

日本神話が最も多く残されているのが出雲と言われます。そして、出雲大社があり、なんとなく古代には出雲王国があった印象があります。

関連し、今回は、出雲について、それらの遺跡を検討し、出雲は、近畿に強大な王国を創ったツングース系王家の始まりであったこといついて愚考します。

まず、出雲国の有名な遺跡ですが、3世紀(弥生時代末期あるいは古墳時代始まり)建造の四隅突出型墳丘墓(方墳)があります。四隅の敷石配置が美しい特徴があります。

Wikipediaによれば、四隅突出型墳丘墓は、総数103基で、島根県39基、鳥取県28基で、山陰地方を中心に建造されました。最大のものは、島根県出雲市の大型墓西谷3号墓(最長辺約50メートル)になります。すなわち、これら方墳の中心地は出雲だったことになります。

また、弥生時代末期に製造された大量の銅鐸と銅矛が島根県の荒神谷遺跡(こうじんだにいせき)で発見されました。

これら、方墳と青銅器のルーツは、当時、強大だったツングース系民族の高句麗という説が一般的です。すなわち、当時、この地域を支配していたのは高句麗由来のツングース系民族だったと思われます。

因みに、方墳ですが、大陸の王墓の様式で秦の始皇帝陵や高句麗広開土王陵は有名です。詳しくは「前方後円墳のルーツはツングース系の方墳」を参照願います。

続いて、出雲の古墳時代ですが、古墳(前方後円墳)で最大のものは墳長110mが1基、次に100mが1基で、100mを超える古墳は2基だけです。また、それらの建造時期は5~6世紀です。すなわち、四隅が作られた3世紀の後の4世紀に、この地域を支配した巨大な大王は見当たりません(下表参照)。

山陰地域の大古墳

因みに、5世紀は、ヤマト(奈良・大阪)に200mを超える巨大古墳が多数建造されていた時代で、これらヤマトの巨大古墳と比較しますと、出雲には小豪族が居たに過ぎない地域になっていた感じがします。

その理由は、おそらく人口の少なさにあったと思われます。拙ブログでは、出雲国(島根・鳥取)の古代人口を遺跡数から推定したことがありますが、継体王(在位:507-531年)時代、出雲の人口は12万人、一方、吉備は16万人、北九州倭国は24万人です。

詳しくは「継体王時代の各王国の人口と力関係」を参照願います。

そこで、古代の出雲をどうとらえるかですが、次のような感じかと思われます。

まず、弥生時代、出雲は、北九州と同じく大陸の隣にあり、朝鮮半島から多くの人が入ってきました。その民族は高句麗(朝鮮半島)由来のツングース系で、3世紀には四隅古墳や青銅器が作られ先進地域となり、小さな出雲王家が創られました。しかし、稲作に適した平地は少なく発展は停滞しました。

そこで、出雲王家は新たな発展を目指し、平野部の多い稲作に適した隣の吉備(岡山)に向かいました。吉備では、先住民族のマレー系と戦いました。強大な高句麗の子孫、かつ高身長のツングース系にとって低身長のマレー系との戦いに勝つのは難しくないことだったと思われます。

なお、吉備のマレー系については、「岡山県の稲作民族ルーツ愚考」および「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

そして、ヤマトの纏向遺跡や巨大古墳遺跡の陶器には吉備の影響が強いことから推察しますと、その後、彼らの子孫は、先に住んでいたツングース系の仲間と共同し、近畿の支配者となり、その中央部のヤマト(奈良)に強大なツングース系王家を作ったのではないかと思われます。

まとめますと、高句麗(朝鮮半島)由来のツングース系民族は、出雲に小王家を創り、次に隣の吉備に移り、最後にはヤマトを支配し、近畿で最初のツングース系王家を創ったと思われます。すなわち、ヤマト王家のルーツは3世紀の出雲にあったと思われます。
関連し、これらの関係を上トップ図に示しました。


一方、出雲については、古事記や日本書紀、さらには出雲風土記に多くの記事が認められます。これをどう見るかですが、このことについては次回、検討したいと思います。


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[ 2021/12/16 18:47 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(10)

海彦・山彦神話の山彦はアイヌ系


海彦・山彦神話のモチーフは実際の古代史


海彦・山彦神話の山彦はアイヌ系(日本書紀は創作)

前回、現天皇家はアイヌ系であること、一方、日本の古代にはアイヌ系の他に朝鮮半島由来ツングース系民族、南方由来のマレー系民族の三大民族が居たこと、それぞれ歴史的役割があったこと等から、日本の古代史は、日本書紀にある日本民族一元史観ではなく、三大民族史観(三元史観)の立場から観るべきであることを検討しました。

関連し、この三元史観の観点から日本書紀の「海彦・山彦神話」について、その暗示する内容について、今回は検討します。

神話の内容は、天皇家の祖先のアマテラスには3人のひ孫兄弟がおり、長男の海彦と三男の山彦は争い、弟の山彦が長男の海彦を打ち破り、その勝った弟(山彦)の孫が天孫降臨し、現存の神武天皇になるというストーリイです。

しかし、日本書紀と言う日本の正史に、何故、海彦や山彦と言った名前があるのか、さらには名前の無い次男がいるのか、また、この話は山彦が海彦を打ち負かすという内容で、何故、弟の山彦が勝つのか、日本の古代史と関連し、何かを暗示していることが感じられます。

そこで、その暗示の内容ですが、長男の海彦は巨大な王家を近畿に創ったツングース系王家、次男は北九州マレー系王家(倭国)、三男の山彦は現アイヌ系王家とすると、この神話は古代史と合致します。

海のかなたから来たツングース系王家(海彦)に山間に居たアイヌ系民族(山彦)はいじめられてきました。しかし、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が現れ、血みどろの戦いの結果、アイヌ系は勝利し、ツングース系王家を滅ぼしました。一方、次男(北九州マレー系王家)はこれらの戦いとは関係なかったので脇役にもなれなかった、と観ることができます。

一方、これら海彦(ツングース系王家)と次男(北九州マレー系)の存在については神話世界の話であったことにしているので、現世では、日本民族は日本民族だけの話になっています。

さらには、山彦の孫は、天孫降臨し、神武天皇となりました。すなわち、ここに、天皇の万世一系が完成します。見事な万世一系の創作です!そして、現天皇家はアイヌ系であることが分かっていますので、その祖先の山彦はアイヌ系と判断されます。

まとめますと、海彦・山彦神話では、古来より山間部に住んでいた山彦が海外から移住してきた海彦に勝ち、その孫が天孫降臨し神武天皇になったことが暗示される内容になっています。

このことは、日本書紀の神話の内容は、古代史を間接的に表現していると観ることができます。その意味で、前回、天皇家が日本民族の頂点に立っているという一元史観で日本書紀は創られているとしましたが、それは編集方針であり、実際は、海彦・山彦神話のように、神話の世界ではあるが、実際の史実が暗示されている内容になっていると思われます。

関連し、これらの関係を上トップ図に示しました。

なお、拙ブログでは先に「「海彦」は何故「山彦」に負けたのか」で海彦を北九州倭国、山彦を大和国 次男を吉備国としてきましたが、今回の観方の方が史実に近く、分かりやすい見方になっていると思われます。


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[ 2021/12/09 21:33 ] 日本書紀は創作 | TB(-) | CM(2)

日本古代史は三元史観で観るべきだ


日本の三大民族と古代史


日本古代史は三元史観で観るべきだ(古代史の問題)

これまで、日本古代史の問題について検討してきました。今回は、そのまとめとして「日本古代史は天皇制一元史観でなく三元史観で観るべきだ」について愚考します。

まず、日本古代史を歪める最大問題として日本書紀の天皇家は万世一系という一元史観が挙げられます。この一元史観は、天孫降臨の天皇家が、日本誕生以来、鉄器と水田稲作で弥生時代を造り、古墳時代には大規模な前方後方墳を建造し、日本を統治してきたというものです。

この中心民族は、遺骨が長身であることや、大陸由来の鉄器と稲作を普及し巨大古墳を建造したという特徴から、朝鮮半島由来のツングース系民族であろうと思われてきました。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来のツングース系が25%、その他10%であることを明らかにし、かつ、現天皇家のルーツはアイヌ系であることを明らかにしました。

すなわち、従来の「天皇家朝鮮半島由来説」を否定しました。詳しくは「天皇家のルーツはアイヌ系の継体王」を参照願います。

また、日本書紀には、外国(主として中国)の歴史書に描かれている邪馬台国や北九州倭国の武王についての言及はありません。日本書紀は一元史観の方針があり、一元史観に合わないこれらの存在を認めないという強い方針があって執筆されたものと思われます。

なお、邪馬台国の卑弥呼は日本書紀の〇〇皇后に当たるとか、北九州倭国の倭王「武」は〇〇天皇に当たるとかの当てはめ報告がありますが、それらのことは、日本書紀の執筆者が漢文に精通していたことから推察しますと、知らなかったことではなく、日本書紀の一元史観を分かりやすくするため、故意に無視したというのが真相と思われます。

そこで、日本の古代史研究は、創作の疑いのある日本書紀に頼るのではなく、DNAや遺跡などの物的資料を基にすべきと思われます。

因みに、これらの物的情報を基に検討しますと、我が国の古代史の概要はつぎのようになります。

縄文時代を造ったのは先住民族のアイヌ系と渡来系のマレー系(マレー系A20%)、弥生時代を造ったのが水田稲作を導入したマレー系(マレー系B10%)と鉄器を持ってきたツングース系になります。

関連し、マレー系Bが中心となって北九州に水田稲作が始まり、その後、邪馬台国が生まれました。続いて倭国が生まれ、倭国は同胞(マレー系B)の百済と連携しました。詳しくは「海洋系と稲作系のマレー系が別々に渡来してきた」を参照願います。

一方、古墳時代に東九州~近畿~東海を支配し巨大古墳を建造した民族王家はツングース系王家になります。しかし、巨大古墳建造に従事させられた人々(おそらく縄文系の人々)の怒りは大きく、ツングース系王家は滅ぼされました。その対立した中心人物はアイヌ系の継体王(在位:507-531年)だったと推察されます。

そして、継体王は現天皇家の祖先となりましたが、そのことが最近のDNA研究で判明したことになります。なお、同じく縄文系のマレー系Aですが、その祖先に藤原家(もと中臣鎌足)が居ることが分かっております。

おそらく、ツングース系王家が滅びたとき、アイヌ系とマレー系(マレー系A)が同じ縄文系として協力して戦った可能性があります。詳しくは「藤原家のルーツはマレー系A愚考」を参照願います。

関連し、上トップに、日本3大民族の歴史的役割について表に示しました。

まとめますと、日本古代史の全貌を観るには、一元史観の日本書紀という書物では不十分であり、日本には3大民族のルーツがあり、DNA研究と遺跡研究という物的証拠の結果をベースに、三民族を中心とした三元史観て検討すべきと思われます。


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[ 2021/12/02 20:36 ] 古代史の問題 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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