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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀愚考


関東のツングース系王家と関連遺跡、鉄剣碑文など


埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀愚考(関東・東北の古代)

ヤマトの王家とは別に関東にもツングース系王家あったことを検討してきました。このことは古墳等の遺跡物調査から明らかですが、残念ながら、日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。

何度も指摘してきましたが、日本書紀は万世一系の偉大なアイヌ系天皇家を主題に書かれたものであり、その前にツングース系王家があったことや北九州に倭国があったことは主題に合わないことから無視されたものと思われます。

関東の王家もその流れにあり、日本書紀には何の記述もありません。しかし、人骨や埴輪等の遺跡物はその真相を語っています。

埼玉の稲荷山古墳出土鉄剣碑文の内容もその一つと思われます。

関連し、今回は、「埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文と関東の5世紀」について上記の観点から再度愚考します。

まず、Wikipedia によれば、その鉄剣碑文は次のとおりです。

特色
115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。

また、1873年(明治6年)、熊本県玉名郡和水町(当時は白川県)にある江田船山古墳からは銀象嵌の銘文を有する鉄刀が出土した。この鉄刀の銘文にも当時の大王の名が含まれていたが、保存状態が悪く、肝心の大王名の部分も字画が相当欠落していた。この銘文は、かつては「治天下𤟱□□□歯大王」と読み、「多遅比弥都歯大王」(日本書紀)または「水歯大王(反正天皇)」(古事記)にあてる説が有力であった。しかし稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣の銘文が発見されたことにより、「治天下獲□□□鹵大王」 と読み、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」にあてる説が有力となっている。このことから、つまり5世紀後半にはすでに大王の権力が九州から東国まで及んでいたと解釈される[8]。
(引用終了)

そこで、引用(Wikipedia)の内容ですが、科学的根拠の無い俗説を中心にまとめられている感じです。まず、「獲加多支鹵大王(ワカタケル大王、雄略天皇)」について、万葉文字の専門家によれば、ワカタケルと読めないこと、あえて読めば「エカタシロ」となることです。

また、雄略天皇が幼少の頃に幼武と呼ばれていたからワカタケルは雄略天皇だ、とするのはこじつけで根拠がありません。近著「日本国紀」(百田尚樹 2018)でも、そのようなことが指摘されています。

拙ブログでもそれらの批判は正しいことを指摘してきました。詳しくは「学研まんが「NEW日本の歴史」、鉄剣碑文はワカタケルと読めない問題」を参照願います。

そこで、改めてその真相に迫りますと次のとおりと思われます。

まず、鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)ですが、この時代は、ヤマトのツングース系王家の巨大古墳建造もほぼ終わり、その巨大古墳建造に対する民衆の怒りが頂点に達していた時期です。すなわち、ヤマトのツングース系王家がアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ばされる前の頃です。

また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳から同内容の鉄剣が出土しております。

以上のことから推察しますと、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、ヤマトの王はあり得ない感じになります。

そこで、このときの大王と言えば、日本の歴史上、北九州の倭王「武」が第一候補に挙げられます。倭王「武」偉大さについては「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

そこで、北九州倭国の倭王「武」の名が、なぜ埼玉県から出てきたのかですが、次のように考えられます。

当時、彼は、478年に「六国諸軍事安東大将軍」となり、新羅を含む朝鮮半島南部を支配する大王となりました。このことは、倭王「武」は朝鮮半島南部をも支配する大王であることが中国南朝から認められたことになります。また、百済と連合し、北の大国ツングース系「高句麗」と戦っていました。

一方、北九州倭国には隣国の敵として、ヤマトのツングース系王家がありました。そこで、倭王「武」は、同じツングース系王家と関係のある宮崎と吉備(岡山)をまず滅ぼしたと思われます。この方面は後に紹介します。

最後の攻撃場所はヤマトだけになりましたが、ヤマトのツングース系王家は強大で簡単には勝利できません。そこで、このとき、東からも攻めるため、関東に行き、関東の仲間の支援を得ようとしたのではないかと思われます。

事実、倭王「武」が関東に来たことが常陸国風土記にも書いてあります。詳しくは「北九州の倭王「武」は関東に来ていた」を参照願います。関連し、この5世紀の時期は、大きな構造船の開発も進み、海洋移動がしやすくなった時期でもあります。

おそらく、朝鮮半島南部をも支配する倭王「武」は関東でも知られた存在で、埼玉出土の碑文入り鉄剣は、このとき創られたのではないかと思われます。その内容の「治天下エカタシロ大王」の意味は、まさに、「エカタシロ大王(倭王「武」)の天下のもと」となります。

なお、関東と北九州の歴史的関係については、碑文入り鉄剣だけでなく装飾古墳もあります。詳しくは「関東の碑文入り鉄剣と装飾古墳のルーツは北九州倭国」を参照願います。

関連し、5世紀後半の関東の様子を、「鉄剣碑文出土の稲荷山古墳」、「ツングース系墳墓吉見百穴」「関東のツングース系王家本家太田市」をキーワードに上トップ図に示しました。

本図によれば、鉄剣碑文出土の稲荷山古墳は王家のあった太田市から20㎞しか離れておりません。鉄剣碑文を作らせた者はこの王家に勤めていた者と思われますが、倭王「武」の関係者が関東に来た時に鉄剣作成を依頼したものと思われます。また、前回紹介のツングース系関係の吉見百穴もすぐ傍にあることから、この辺一帯には関東のツングース系王家と関連した者が多数住んでいたと思われます。



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[ 2022/01/27 10:11 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

埼玉の吉見百穴はツングース系王家終末の墓愚考


吉見百穴のルーツ


埼玉の吉見百穴はツングース系王家終末の墓愚考(関東・東北の古代)

前回、関東に、ヤマトとは別のツングース系王家があったこと、その中心地は群馬・埼玉であったことを検討してきました。

関連し、私ことですが、埼玉県には8年間(1973~1980)住んだことがあります。そして、近くの古代遺跡、鉄剣碑文の出た有名な「稲荷山古墳」や、謎の洞窟で有名な「吉見百穴」を何度か訪問しました(下写真参照、小生の青年時代の姿が映っています)。

吉見百穴と著者1973頃

特に、「吉見百穴」については、小さい丘山に巨大な横穴や無数の穴があり、圧倒されました。そして、なぜ、このような洞窟があるのか、理解しようとしても理解できないものがありました。

そこで、今回は、最近の情報を基にその謎に迫ってみたいと思います。

まず、「吉見百穴」が建造された時代ですが、古墳時代後期(6~7世紀)とあります。これは、関東のツングース系王家の滅亡時期に合致します。

また、穴は、一般の横穴式古墳の内部の通洞と同じ様式で、洞窟内部に多数の遺体安置場があるため、集団墓地であると結論されたようです。

その墓様式のルーツは、「出雲を原郷とする人たち」(岡本 雅享 2016)によれば出雲になるようです。すなわち、朝鮮半島由来の人びとは出雲に初めに移住し、さらに一部の人びとは北上し、新潟当たりから南下し、関東に住み着いたことになります(上トップ図参照)。

本著の指摘は、関東の王家は朝鮮半島由来のツングース系(新潟経由)という意味で、拙ブログの内容と一致します。

そして、建造時代(6~7世紀)とルーツ(出雲)から想像しますと、「吉見百穴」について、次のことが考えられます。

まず、関東のツングース系王家の王は大古墳に葬られました。その他の王家関係者は、小古墳、あるいは初期の「吉見百穴」に葬られました。

そして、6世紀後半、王家はヤマトのアイヌ系新王家・関東のアイヌ系豪族連合に滅ぼされ、古墳の建造はできなくなりました。その結果、残されたツングース系王家関係者に残された場所は「吉見百穴」だけとなり、次々とそこに葬られました。しかし、そこがいっぱいとなると、利用は終わり、時代も変わり、放置されてしまった、と思われます。

何故、放置されたのかですが、7世紀まで墓として利用されてきた百穴ですが、8世紀となると、奈良時代です。アイヌ系王家が奈良に都を定め、本格的に関東・東北支配を始めた時期です。残されたツングース系人々も、その時代の流れに抵抗できなくなっていった時代と思われます。

すなわち、「吉見百穴」は関東のツングース系王家関係者の横穴墓であり、かつ、ツングース系王家終末を示す墓と思われます。

関連し、上トップに、「吉見百穴」のルーツと時代について示しました。



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[ 2022/01/20 19:19 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)

群馬に別のツングース系王家があった愚考


関東のツングース系王家と分家の大古墳数


群馬に別のツングース系王家があった愚考(関東・東北の古代)

前回、墳長100mを超える大古墳建造には25万人以上の人員が動員されること、これらの人員を集めるには大きな権力者すなわち王が居たことが推察されることを指摘しました。事実、王冠が群馬や茨城の古墳から出土しております。

関連し、今回は、さらに検討し、関東地域には西日本とは別のツングース系王家があったこと、中心は群馬だったことについて愚考します。

まず、関東は、河川の関係から3地域に分かれること、その地域分類は地方言葉と一致することが知られております。それらは、群馬・埼玉、栃木・茨城、千葉・東京・神奈川の3地域になります。詳しくは「大河が古代の関東を分けた」lを参照願います。

そこで、前回の表を基に、これら3地域ごとに墳長100m以上の大古墳を整理しますと下表のとおりです。

関東3地域の100m以上大古墳数

関東3地域の世紀別100m以上大古墳数

合計建造数は、茨城・栃木9基、群馬・埼玉23基、千葉・東京・神奈川11基、また、それらは、4世紀、5世紀、6世紀と連続して建造されています。おそらく、それぞれの地域に王家があり、それぞれの王家は続いていたと観ることができます。

そして、それぞれの王家が続いていたということは、争いはなく、平和な時代が続いていたと観ることができます。このことは、強力な本家があり、他に従属する2分家があったことを示唆します。

また、西日本と同じような墳長200m以上の巨大古墳ですが、墳長210mの太田天神山古墳(5世紀建造)、および209mの古丸山古墳(建造時期不明)が群馬県太田市にあります。

以上のことをまとめますと、群馬・埼玉に本家があり、その中心地は群馬県太田市だったと推察されます。

その太田市ですが、関東平野北部の中心部に当たる地域で、山裾の広大な平野部は稲作に適し、コメ生産量も多く、これらをベースに人口が増え、発展した地域と思われます。

そして、弥生時代後期に入りますと、その生産力を背景に王家が生まれ、その王家は、茨城・栃木と千葉・東京・神奈川の2地域に分家を作り、その王家が滅ぶ6世紀後半まで続いたと想像されます。

最後に、これら関東の大古墳43基を建造した王家ですが、前回指摘したとおり、西日本のヤマト王家とは別のツングース系王家と思われます。

西日本ヤマトでは、6世紀初頭(507年?)に朝鮮半島由来ツングース系王家がアイヌ系の継体王(在位:507-531年、現天皇家)によって滅ばされたことを検討してきました。当然のことですが、継体王は、次の目標に、関東のツングース系王家を滅ぼすことを考えていたと思われます。

そのときの関東のアイヌ系ですが、おそらく、彼らは中山間地に居て、畑作を受け入れ部族社会を形成し、ツングース系王家と付き合っていたと思われます。

そして、それらアイヌ系の部族長は、ヤマトのアイヌ系新王家と共同し、関東のツングース系王家を滅ぼしたと想像されます。この結果、関東のツングース系王家の王宮は破壊され、水田は奪われ、奈良・大阪と同じような道を歩んだと思われます。

以上の結果、関東の王家の遺物は古墳だけ、しかも埋蔵者不明となったと想像されます。もし、争いが無かったとするなら、例えば常陸国風土記がありますが、それら古墳建造者のことが残されていてもおかしくありません。

ツングース系王家を滅ぼした関東のアイヌ系豪族は、強奪者でした。その恥ずかしい内容は風土記に書けない内容だったのが真相と思われます。

また、関連し、継体王(在位:507-531年)に始まったアイヌ系新ヤマト朝廷による関東・東北の支配ですが、それは、阿倍 比羅夫の蝦夷征服(北征、658年)に始まりますが、これには関東の地域は入っていません。この時代(7世紀初頭)、すでに関東には国造(後の国司)が置かれ新ヤマト朝廷の支配下にあった感じです。

これらことは、新ヤマト朝廷と関東の蝦夷豪族が、協力して関東のツングース系王家を6世紀後半に滅ぼし、その報償として関東の豪族は国造の地位が保証されたことを示唆します。


関連し、6世紀の関東のツングース系王家の様子について上トップに示しました。

なお、群馬に、朝鮮半島由来の王家があったことを、遺跡出土物から紹介しているブログ記事「甲冑王とかみつけの里」がありましたので、参考までに紹介しますと、次のとおりです。

嘘みたいな本当の歴史話㉝

皆さん、今から6年前、群馬県渋川市の榛名山(はるなさん)の麓で国道工事に伴う遺跡発掘調査が行われました。そこから大変珍しい古代人の人骨が出土した事はご存知でしょうか?何が珍しいかと言うと、前例のない日本で初めて鉄の甲冑をまとった人骨が出土したからです。では、この鉄の甲冑をまとった人物はいったい何者なのか?武人?貴族?はたまた農民?ここに大きな秘密が隠されておりました。今日はこの人物像のお話をしようと思います。

この人物は男性で、西暦500年代初頭に大噴火した榛名山の火砕流に巻き込まれて亡くなった事がわかりました。規模は長崎雲仙普賢岳で起きた火砕流の30倍とも言われております。では一体どんな人物だったんでしょう?その謎を解くカギがとある古墳にありました。

この遺跡から南に16km離れた所に、「上毛野はにわの里公園(かみつけのはにわのさとこうえん)」がありますが、その公園内に「保渡田八幡塚古墳(ほどたはちまんづかこふん)」と言う大型の前方後円墳があります。この古墳は既に盗掘されており被葬者の人骨はありませんでしたが、発掘調査を行った結果大量の埴輪が出土しました。その埴輪を復元してみると、生前の古墳の被葬者(王様)の生活の姿を現した物であった事がわかりました。

埴輪は狩猟をする王、神事をする王、隊列を組む王、鳥を方にのせた王他、様々な王の生活の場面を表したもので、その服装が極めて珍しく朝鮮半島の騎馬民族スタイルに酷似しており、諸説色々ありますがこの古墳の被葬者は朝鮮半島から来た騎馬民族の王様だった可能性が極めて高いと言う事がわかりました。そしてここには、甲冑をまとった埴輪もありました。関東付近で多く出土する甲冑をまとった武人の埴輪(NHKのはに丸くんや特撮映画の大魔神の様な埴輪)、元々王に仕えた武人と思われておりましたが、鎧が決まって出土するのは古墳の石室、つまり鎧をまとう者は武人ではなく王だと言う事が近年わかりました。つまり鎧をまとった埴輪も王だと言う事です。

では火砕流で亡くなった甲冑男性はと言いますと、古墳の王の埴輪と甲冑がきわめて似ており、男性はやはり武人ではなくこの付近を治めていた王と言う事がわかりました。そしてその後の科学的な調査の結果、この人骨は成人男性で年齢は40代前半、身長は164cmだと言う特徴がわかり、また歯の成分から長野付近で幼少期を過ごした人物、つまり長野県付近で生活経験があった事がわかりました。更に大腿骨が太かった事から馬に常時乗っていた事もわかり、結論からこの男性は、朝鮮半島渡来人で長野付近を経て群馬に移住してきた騎馬民族の王様だったと言う事が判明しました。

実は群馬県には古代、多くの渡来人がやってきて、その痕跡を現代にも多く残してくれております。(
引用終了)。

以上の記事は、まさに、群馬に朝鮮半島由来のツングース系王家があったことを示すものと思われます。


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[ 2022/01/13 18:59 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(4)

巨大古墳王家滅亡の衝撃と関東地方への影響


関東へのツングース系民族の侵入と大古墳数


巨大古墳王家滅亡の衝撃と関東地方への影響(関東・東北の古代)

現天皇家はアイヌ系であることが最近のDNA研究から明らかになりました。関連し、拙ブログでは、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって、ヤマトの朝鮮半島由来ツングース系王家、すなわち巨大古墳建造王家が6世紀初頭(507年?)に滅ぼされたことを検討してきました。

一般に200mを超える巨大古墳建造には、「前 方 後 円 墳 の 技 術 史(甘 粕 健 1985)」を参考にしますと、100万人以上の労力が必要と推定されます。ヤマトの王家は、これら巨大古墳30基以上を250年間(250年~500年)に西日本で作ったことが確認されていて、巨大な権力を持った王家だったと推定されます。

その意味で、その王家が滅亡したことは、規模は小さくなりますが、100m以上の大古墳を多数建造してきた関東の王家や豪族にも衝撃だったと思われます。

関連し、今回は、関東におけるその滅亡の衝撃について、関東の大古墳(前方後円墳)の建造推移から、前方後円墳体制と関連し愚考します。

まず、Wikipediaの古墳一覧を参考に、墳長100m以上の都県別の大古墳について下表に示しました。100m~200mが44基、200m以上が2基、合計46基あります。

関東各県の墳長100m以上の古墳数

建造のための人員数ですが、墳長200mで100万人とすると、100m程度となるとその4分の1、すなわち25万人以上が動員されたと推定されます。この動員数は当時の人口から推察しますととても大きな数字で、大きな権力者、すなわち王家があったと観てもおかしくない数字です。特に、200m以上が2基もある群馬にはヤマトに次ぐ大王家があったと観ることができます。

次に、世紀別建造数を下表に示しました。建造時期は4世紀に13基、5世紀に15基、6世紀に16基、7世紀に1基となっていて、4~6世紀の300年間が関東地方の古墳時代という感じです。

関東各県の墳長100m以上の世紀別古墳数

特に群馬ですが、その300年間に15基の大古墳が建造されています。平均すると20年1基、王の在位年数を20年とすると、系統的な大王家があったことが感じられます。さらには、その他100m以下の中小古墳建造もあり、建造に動員させられた民衆の負担は相当大きかったと推察されます。

次に、ヤマト(奈良・大阪)の巨大古墳王家滅亡の影響ですが、徐々に広がっていった感じです。すなわち、ヤマトの巨大古墳王家は6世紀初頭に滅びましたが、関東では6世紀も大古墳が建造され続けました。そして、7世紀となると、ほぼ終わります。

関東で大古墳建造を行った王家の民族ですが、埴輪などの遺跡や人骨調査を総合すると、ヤマトと同じくツングース系王家であったことは確実です。それらの経過は次のようであったと推察されます。

関東にもともと居たのは縄文系(アイヌ系等)でしたが、縄文晩期に寒冷化、そして富士山や浅間山の火山噴火があり、主食の栗林は破壊され、縄文集落は破壊され、人口が激減したことが知られています。

彼らは、残った栗林のある山間地域の一部や、海岸地帯で魚介類を収集して生きのびたと推察されています。詳しくは「縄文時代晩期、関東は富士山噴火で壊滅的打撃を受けた」を参照願います。

この火山活動が収まったのは縄文終期ですが、そこへ、満州(中国東北部)出身のツングース系民族が朝鮮半島から侵入してきました。彼らは農耕民族で、かつ農耕用の鉄器を持っていましたので、食料問題は置きませんでした。

そして、紀元前1世紀頃、関東地方に水田稲作が導入されますと、ツングース系民族は水田開発に有利な関東平野に広がり、生産力をあげ、人口が増え、その生産力を背景に豪族や王になっていった者が現れたと思われます。

関東のツングース系の王や豪族は、その権力者の象徴である前方後円墳という大古墳を5世紀から建造するに至りました。しかし、大古墳建造は民衆の負担が多く、反感も多く、奈良・大阪と同じく建造は困難になっていき、終には、それまで従っていたアイヌ系の豪族等によって滅ぼされ、抹殺されてしまったのではないかと思われます。

その抹殺されたと考えられる最大の理由ですが、建造された大古墳の埋蔵者が不明であることです。これには、ツングース系王家という弥生勢力とアイヌ系等縄文勢力という民族対立もあり、民衆の怒りは大きかったことが想像されます。その結果、ヤマトと同じく古墳だけが残ったと思われます。

これらの結果、関東でもツングース系王家に代わり、アイヌ系豪族が新しい支配者となっていったものと思われます。関東地方はもともとアイヌ系が多かったところですので、この経過は近畿のヤマト王家が滅びた後のことでもあり、自然な歴史経過と思われます。

因みに、関東においては現在でもアイヌ系は多数で約50%です。マレー系30%も加えると、合計すると80%で、ツングース系(15%程度)は明らかに少数派です。詳しくは「関西人のDNAとルーツ」を参照願います。

関連し、ツングース系民族の関東支配の様子を上トップ図に示しました。

最後に、これら関東の大古墳建造者と近畿のヤマト王家(朝廷)との関係について検討しますと、次のようであったと推察されます。

まず、近畿では、ツングース系王家が滅亡したときが6世紀初頭(507年?)、その後の6世紀には巨大古墳は作られなくなりました。しかし、関東では、その後の6世紀も大古墳の建造が続きました。

このことは、ヤマト朝廷の許可を受けた者だけが前方後円墳を建造できるという「前方後円墳体制」という説がありますが、あてはまりません。ヤマトの王家とは別に、関東には別のツングース系王家があったことを示しています。

上トップ図を参考にしますと、おそらく、関東のツングース系は、ヤマト方面からでなく新潟方面から来た可能性が高く、かつ、移住から王家ができるまで500年以上かかっていることから推察しますと、ヤマトのツングース系王家との関係は弱く、独立して発展した可能性が高いと判断されます。

言い換えますと、前方後方墳というのは当時の権威の象徴であり、流行だったにすぎないと思われます。

前方後円墳体制について、詳しくは「前方後円墳体制はあったのか愚考」を参照願います。


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[ 2022/01/06 19:30 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(6)

「アイヌ系大王の登場と古代」のまとめ等について


コスモス10月


「アイヌ系大王の登場と古代」のまとめ等について(ごあいさつ)

新年にあたり、今年の目標について紹介させていただきます。

拙ブログは、2017年4月に始まりましたので、今年は6年目に入ります。記事アップ数は400回を超え、これまでひらめきや思い付きで書いてきましたが、もう書くことは無くなった感じがします。

そこで、今年は、大課題を作り、記事のまとめをしたいと考えています。

その最初のタイトルですが、「アイヌ系大王の登場と古代」(仮題)を考えています。アイヌ系大王とは継体王(在位:507-531年)のことです。

最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であることが分かりました。このことは、大発見で、古代の権力者は朝鮮半島由来のツングース系王家から日本先住民族のアイヌ系王家に変わったことを意味し、これまでの「天皇家は万世一系」という古代史を変えなくてはなりません。

記事まとめ「アイヌ系大王の登場と古代」では、これらのことを物語風にまとめてみたいと思っています。

一方、現在の日本の古代史は、現天皇家のルーツはアイヌ系という事実に言及していません。「日本の古代史は戦前と変わっていない」という指摘がありますが、まさにその通りで、これを変えることは簡単ではない感じです。

関連し、その例を挙げれば、邪馬台国所在地論争に関し、「邪馬台国はなかった」(1971 古田武彦)があります。本著は「邪馬台国は邪馬一国で北九州にあった」ということを論理的に書いたものですが、本書を超えるものはまだ見当たりません。

また、魏志倭人伝の「倭人は入れ墨(刺青)の風習」について、ヤマト(奈良)には無い風習であり、それは北九州に渡来した南方系稲作民族(マレー系)の習慣であることを拙ブログでは指摘してきました。

しかし、邪馬台国ヤマト説では、この倭人の風習には触れません。すなわち、都合の悪いことは無視するという、およそ学問ではなくなっています。

そして、新聞等マスコミでは、未だに、奈良の纏向遺跡は邪馬台国の遺跡の可能性なんてことが書いてあります。しかし、これらのことは放置はできませんので、拙ブログは今年も真実の追及を続けます(笑)。

なお、1月の予定ですが、上記の記事まとめ「アイヌ系大王の登場と古代」に入る前、昨年からの続き、「巨大古墳建造王家の滅亡」と関連したことについて記事アップを続ける予定です。

関連し、記事アップ間隔ですが、昨年と同じく週1回を目標に木曜日夜にアップする予定です。

また、FC2ブログ関係の皆様への訪問ですが、これも昨年と同じく2日に1回とし、興味深い記事にはコメントや拍手コメントを入れたいと思っています。どうぞ、よろしく。

なお、上と下の写真は我が有機菜園の秋の様子で、美しく咲いたコスモスと菊です。コスモスの陰に男の隠れ家があります(笑)。今年は、これらの花のように行きたいところです。


菊花11月


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[ 2022/01/01 09:22 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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