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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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ヤマトのツングース系王家滅亡の衝撃と北九州倭国


北九州倭国とヤマトの関係(6世紀)


ヤマトのツングース系王家滅亡の衝撃と北九州倭国(西日本の古代)

現天皇家のルーツはアイヌ系であることがDNAから分かったこと、ヤマトのツングース系王家はそのアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって6世紀初頭に滅ぼされたこと、その影響は関東および東九州地域にも及んだこと、すなわち、これらの地域では、ツングース系からアイヌ系や隼人の豪族に支配者が変わっっていったことを検討してきました。

一方、北九州地域については南方系稲作民族のマレー系主体の倭国が実在したことを検討してきました。

関連し、今回は、ヤマトの巨大古墳建造王家滅亡が北九州地域(福岡、佐賀、長崎、熊本)へ及ぼした影響について愚考します。

まず、北九州の100m以上の大古墳の建造についてWikipediaの古墳一覧を参考にまとめますと下表のとおりです。

北九州各県の100m以上の大古墳

マレー系倭国のあった北九州地域にも3~6世紀後半の間に大古墳が建造されています。マレー系倭国が建国されたのは4C以降と思われます。詳しくは「日本書紀と空白の4世紀の関係愚考」を参照願います。

すなわち、4C以降の大古墳建造の主体は、ツングース系王家とは関係ない可能性があり、単に大古墳は権力の象徴として建造された可能性があります。例えば、ヤマトのツングース系王家が滅びた後の6Cにも建造が行われていますが、これら大古墳は北九州倭国の王の墓と見ることができます。

例えば、北九州最大の岩戸山古墳は筑紫君(つくしのきみ)磐井の墓と言われております。筑紫君磐井は、北九州地域を支配した王(倭国王、筑紫の君)とも言われておりますが、528年の磐井の乱を起こしたことで有名です。

磐井の乱は、北九州倭国と近畿の大王となった継体王(在位:507-531年)の戦いで、決着はつかなかったと拙ブログでは観ています。詳しくは「倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係」を参照願います。

一方、ヤマトのツングース系王家がアイヌ系継体王によって滅ぼされたのは6世紀初頭と思われますが、その時の北九州倭国の王は倭王「武」でした。拙ブログで何度も紹介していることですが、倭王「武」は朝鮮半島の南部をも支配した大王でした。

この結果、その朝鮮半島南部の「新羅」から倭国に朝貢があったことが新羅の歴史書に記されています。この朝貢は、新羅と倭国王との関係を示すもので、そのことが上述の「磐井の乱」の一因となったことをほのめかすことが日本書紀にも書いてあります。

また、宮崎のツングース系王家滅亡に関し、倭王「武」が関係したことは前回紹介のとおりです。

以上のことから6世紀の北九州の状況を検討しますとは、北九州には倭国があり、ヤマトのツングース系王家滅亡の後も健在だったと判断されます。

そして、ツングース系王家がアイヌ系継体王によって滅ぼされた後、残された対立者はヤマトの継体王と北九州の倭国であり、それが倭国とヤマトの対立(磐井の乱)の背景だったと思われます。

まとめますと、継体王によってヤマトのツングース系王家が滅ぼされました。一方、北九州では倭国が続いていました。継体王の次に目標は北九州倭国を滅ぼし日本を統一することだったと思われます。しかし、このときの倭国王は筑紫君磐井で、その戦いは決着がつかなかったと判断されます。

なお、北九州倭国が滅んだ時期は、白村江の戦い(663年)で大敗した直後でした。詳しくは「白村江の戦いにおける海戦の真相」を参照願います。

関連し、北九州倭国とヤマトの継体王との関係を上トップ図に示しました。


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[ 2022/02/24 09:06 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(0)

宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考


倭国、宮崎、ヤマト、薩摩隼人の関係(5世紀)


宮崎の古墳群とツングース系王家滅亡愚考(西日本の古代)

私こと、宮崎には仕事の関係で7年間滞在しました。そのとき見たのが西都原古墳群です。多数の小古墳のなかに100mを超える大古墳もあり、なぜ、古墳時代の中心地のヤマトから離れた宮崎の地に古墳群があるのか謎でした。

関連し、今回は、東九州(大分、宮崎、鹿児島)に大古墳を建造したのはヤマトと同じツングース系王家だったこと、関連し、宮崎の王家滅亡について愚考します。

まず、古墳時代の西日本について整理しますと、次のとおりです。

北九州には南方由来の稲作民族マレー系の倭国があり、同じマレー系の百済と協力し、北の大国の高句麗と戦っていました。

一方、近畿・中国地域には、ヤマト(奈良)に朝鮮半島由来のツングース系王家があり、その支配はツングース系の多い四国と東九州まで及んでいました。このため、北九州倭国は、北の高句麗だけでなく東九州のツングース系とも対峙していたと思われます。

関連し、東九州地域の100m以上の大古墳(前方後円墳)をWikipediaの古墳一覧からまとめますと下表のとおりです。

東九州3県の大古墳

この表から、大古墳は、大分に2基、宮崎に6基、鹿児島に2基、合計10基あり、3世紀末から建造が始まり、5世紀に頂点を迎えたと判断されます。特に、宮崎はその中心地で、女狭穂塚古墳と男狭穂塚古墳は墳長が176mで九州地域として最大で、宮崎にも王家があったと推察されます。

それら古墳から大量の埴輪(円筒土器が大半)が出土しておりますが、それら円筒土器は吉備(岡山)由来と言われております。

そして、6世紀には大古墳建造は見られません。この過程は、ヤマト(奈良・大阪)と吉備のツングース系王家の盛衰と同じです。

そこで想像しますと、次のことが考えられます。

弥生時代、まず、ツングース系民族が近畿・中国と同じように東九州にも入ってきて、持って来た鉄製農具を使い、低地平野部で稲作を行い、発展します。特に、宮崎は平野部が多く、気候は暖かく雨が多く稲作の適地で、最も人口が増え栄えた地域と思われます。

そして、5世紀には大古墳が、大分で1基、宮崎で3基、鹿児島で1基作られ、最盛期を迎えたと思われます。

それらの建造には、縄文時代から中山間地に居たアイヌ系が協力し、アイヌ系の中には豪族となっていった者もあったと思われます。特に、宮崎は縄文遺跡も多くアイヌ系が多かった地域でした。詳しくは「弥生時代の九州の中心地は福岡と宮崎だった」を参照願います。

すなわち、西日本の5世紀は、ツングース系王家が最も栄えた時代で、東九州、特に宮崎も同様に繁栄したと思われます。そして、それらをまとめていたのが大阪のツングース系王家だったと思われます。

それらの過程は次のようだったと思われます。

まず、ツングース系王家のルーツは出雲王家と拙ブログでは観てきました。その出雲王家は南の吉備(岡山)に移り、さらに東の近畿に移り、ヤマトに強大なツングース系王家を創りました。

一方、吉備から宮崎への流れもありました。宮崎の古墳から出土している埴輪を見ますと円筒土器が大半です。その円筒土器のルーツは吉備ですので、宮崎の大古墳建造王家もヤマトと同じく出雲・吉備由来のツングース系だと判断されます。すなわち、ヤマト、吉備、宮崎の王家はツングース系王家として連携していたと推察されます。

しかし、古墳建造の労役は厳しくなっていったのが建造の多かった5世紀と思われます。中には、大阪の巨大古墳建造に動員された者もあった可能性もあります。当時は、構造船の開発も進み、それが可能になった時代でした。詳しくは「巨大古墳建造とツングース系王家の盛衰」を参照願います。

そして、古墳建造の労役は厳しく、それが民衆の怒りとなり、東九州のツングース系王家は滅ぼされたと結論されます。

そこで、気になるのが、誰が宮崎のツングース系王家を滅ぼしたかですが、三人の主役が考えられます。

第一の主役はアイヌ系継体王(在位:507-531年)です。宮崎は最初の天皇すなわち神武天皇発祥の地として日本書紀にも紹介されています。最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)で、現天皇家はアイヌ系で、初代は継体王であることがほぼ確実です。すなわち、神武天皇=継体王になります。

そのことから想像しますと、継体王が出身地の福井から密かに宮崎(日向)に来て仲間のアイヌ系を集めツングース系王家と戦い、その後、宮崎の仲間を引き連れ東征した可能性があります。あるいは、もともと継体王は宮崎の中山間地(高千穂)出身だった可能性もあります。

しかし、この可能性は単なる推測であり、可能性は低いと思われます。

第二の主役は倭王「武」です。当時、北九州は倭王「武」の時代で、朝鮮半島南部も支配する強大な国になっていました。倭王「武」の時代、敵対する勢力は北にツングース系の高句麗があり、東にツングース系のヤマト王朝がありました。このため、目先の宮崎のツングース系王家と戦う理由は十分にありました。

倭王「武」について、詳しくは「古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考」を参照願います。

第三の主役は南九州の隼人です。ブログ仲間の「鬼と仏の国東半島めぐり」の最近記事「養老年という時代-隼人討伐その後」によれば、奈良の大和朝廷が720年に大隅・日向の隼人討伐を大分の「宇佐宮」に命じたとあります。すなわち、宮崎のツングース系王家が滅びた後、宮崎の支配者になった者は隼人だったことになります。言い換えますと、南九州の隼人が宮崎のツングース系王家を滅ぼしたことになります。

どれが真実なのか、後ほど詳しく検討したいと思いますが、拙ブログでは、倭王「武」と隼人と土着のアイヌ系豪族が連合し、強大なツングース系王家と戦ったと観ています。巨大なツングース系王家を倒すのは単独では不十分で、連合して戦った可能性の方が高いと見ています。

関連し、古墳時代の東九州と奈良・大阪の関係について、上トップ図に示しました。



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[ 2022/02/17 10:22 ] 未分類 | TB(-) | CM(5)

吉備国はツングース系王家の本家だった


吉備、ヤマト、日向の古墳時代


吉備国はツングース系王家の本家だった(西日本の古代)

先に、出雲地域には、四隅(よすみ)と呼ばれる古墳が3世紀に多数建造され、かつ、日本最大の青銅器をもった王家が現れたことを検討しました。このことは、出雲に朝鮮半島由来のツングース系王家があったことを示唆します。

しかし、その後は100m超える大古墳建造は2基だけ、またそれらの古墳は2世紀離れた5世紀の建造時期で、これらのことから推察しますと、出雲の王家は移住したのではないかと思われます。その理由として、山陰地域は狭く、農業生産が少なく、出雲王家の人たちは、より広い展開を求め、他地域へ移住した可能性が高くなります。

その移住先の第一の候補は隣の山陽地域(特に、岡山県)と北陸地域が有力です。岡山については、弥生時代遺跡数が中国地域で最大であります。一方、北陸の流れは関東に続いていることは、これまで検討してきたとおりです。

関連し、今回は、山陽の中心地だったと思われる吉備国(岡山)の古代について愚考します。

まず、Wikipedia によれば、吉備の古代は次のとおりです。


吉備は古代、畿内や出雲国と並んで勢力を持っていたといわれ、巨大古墳文化を有していた。また、優れた製鉄技術があり、それが強国となる原動力であったとされる。『古事記』中巻、孝霊天皇の段などに兵庫県の加古川以西が吉備であると捉えられる説話があり、加古川を国境としていた時期があると考えられている。

弥生時代後期の後半に(2世紀初めから3世紀中頃まで)、この地方独特の特殊器台・特殊壺が作られ、綾杉紋や鋸歯紋で飾られ、赤く朱で塗った大きな筒形の土器だった。これは部族ごとの首長埋葬の祭祀に使われ、弥生墳丘墓(楯築弥生墳丘墓)から出土している。また最古級の前方後円墳(箸墓古墳・西殿塚古墳)からも出土しており、後に埴輪として古墳時代に日本列島各地に広まった。また吉備は弥生時代からの塩の生産地だった。

この時代は日本では豪族が朝鮮から鉄素材を入手していたが、新羅の援助を受けていた吉備では鍛鉄技術が進み、入手した材料から鉄製品が作られた。古墳時代に入ると吉備では鉄鉱石を採掘し、中国地方ほかで製鉄も始まったが、弥生時代に製鉄がすでに始められたと考える説もある[2]。

古墳時代、吉備地方の現在の岡山平野南部は内海となっていた(吉備穴海、もしくは吉備内海と呼ばれる)。4世紀からこの内海の近くに多数の前方後円墳が造られた。『記紀』や神社伝承においても崇神天皇による四道将軍の遠征によって彦五十狭芹彦命・稚武彦命兄弟や鴨氏族が吉備に進出したことが記録されている。・・・
(引用終了)

また、山陽地域の100m以上の大古墳の墳長と建造時期は下表のとおりです。

山陽地域の墳長100m以上の大古墳

以上の情報とこれまでの拙ブログ情報から山陽地域古代状況についてまとめますと次のとおりです。

まず、吉備には、縄文時代の陸稲栽培が知られており、これは、稲作民族のマレー系の人びとが持ってきたものと思われます。また、弥生時代になると塩の生産地であったことが知られております。弥生時代後期には、その時代最大の墳丘墓を持つ「楯築遺跡」が知られております。これは独特の巨石が用いられております。

稲、塩、巨石についてはマレー系の人びとの影響が感じられます。詳しくは「弥生時代最大墳丘墓のある岡山県の「楯築遺跡」と邪馬台国」を参照願います。

弥生時代後期、そこへ、出雲由来のツングース系が侵入し、製鉄を始め、初期のツングース系王家を創り、巨大古墳の建造が始まったと推察されます。

100m以上の山陽地域の大古墳ですが、兵庫に3基、岡山に6基、広島と山口は0基です。兵庫の3基はすべて200m以下ですが、岡山には300m以上が1基、200~300mが2基、100~200m以上が3基であり、岡山は山陽地域の中心地だったと思われます。

そして、ヤマト王権との関係ですが、古墳建造が3~6世紀に連続的に建造されていることから推察しますと、争いは無かったことが予想されます。

また、ヤマトの古墳には、吉備国ルーツの埴輪(円筒埴輪)が多数発見されていますので、おそらく、吉備国の人たちがヤマトに運んだものと思われます。

以上のことから、まとめますと、中国地域の古代は次のようであったと思われます。

まず、吉備国はマレー系の人びとが居て、塩生産や稲作で繁栄し「楯築遺跡」を作りました。

一方、出雲では、朝鮮半島由来ツングース系民族が侵入し、稲作で繁栄し出雲王家が創られ、四隅古墳や青銅器生産で2~3世紀に繫栄しました。しかし、農耕地は狭く、近隣の北陸や山陽地域に移住しました。

ツングース系は長身であり戦いに強く、先住民族のマレー系を追い払い、王家を創り、大古墳の建造を開始したと思われます。

そして、その仲間は、さらにはヤマトまで移住し、近畿のツングース系をまとめ、強大なヤマト王権を作ったと推察されます。そして、吉備はツングース系王家の本家だったが、本家がヤマトに移転した後は分家として栄えたと推察されます。

一方、日向(宮崎)にも大古墳があります。それら古墳出土の円筒埴輪は吉備国由来と推察されますので、宮崎の古墳も、吉備国の末裔の建造だったと思われます。なお、この宮崎の古代については次回検討予定です。

以上、総合しますと、出雲から始まったツングース系は、隣の吉備国、そして、さらにはヤマトや宮崎に展開し、最後は、本家はヤマト、吉備と日向(宮崎)は分家という関係ができあがったと思われます。

関連し、ヤマトのツングース系王家の発展経過を上トップ図に示しました。


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[ 2022/02/10 10:28 ] 西日本の古代 | TB(-) | CM(4)

関東とヤマトの埴輪の違い愚考


埴輪と古墳時代国家(5世紀)


関東とヤマトの埴輪の違い愚(関東・東北の古代)

関東には100m超える大古墳が多数あることや、古墳建造に関係した関東の弥生系の人びとは新潟方面から来たことから、ヤマト(奈良)とは別に朝鮮半島由来のツングース系王家が関東にあったことを検討してきました。

従来は「前方後円墳体制説」があり、ヤマトと同じ前方後方墳が関東にもあるので、関東もヤマト王朝の一部(一地方)だった、と観られてきました。

しかし、ヤマト王朝がアイヌ系の継体王(在位:507-531年)によって滅ばされた後も関東の王家は存続しており、拙ブログでは、ヤマトとは別に独立した王家が関東にあったと観ています。

一方、埴輪ですが、関東とヤマトには違いがあることが指摘されてきました。

例えば、「捏造の日本古代史」(相原精次 2017)は、関東には西日本にない独特の個性的な埴輪が多数あることを紹介しています(下写真参照)。また、本著は、日本の古代史はヤマト中心で、関東の古墳や埴輪については軽視の傾向があることを指摘しております。

捏造の日本古代史(表紙)

関連し、今回は関東の埴輪の様相から、関東に独特の古墳時代分化があったこと、ヤマトの王家とは別の王家があったことを検討します。

まず、埴輪は陶器で、円筒埴輪と形象埴輪の2種類に大別されます。

円筒埴輪は、古墳の上に飾られた置物です。弥生時代末期の吉備(岡山)がルーツで、これがヤマト(奈良)に広がったと言われます。この意味でヤマトの埴輪は吉備国の影響が強いと言われるゆえんです。

一方、形象埴輪は人物、動物、船、家等の物を表現したものです。これら形象埴輪は、関東に出土例が多い傾向があります。関連し、Wikipedia には、国宝級の形象埴輪2点(すべて関東)、重要文化財41点(28点は関東)、その他著名な埴輪3点(2点は関東)、合計46点を紹介しております。

これら合計46点のうち、関東には32点(67%)があり、特に群馬には22点(国宝2点、重要文化財18点、その他著名2点)があり、形象埴輪は群馬に集中しております。(下図参照)

国宝等埴輪46点と地域

これらから見て、関東は形象埴輪の中心地、特に群馬には国宝など特徴ある埴輪が半数近くあることになります。まさに、群馬は形象埴輪文化の中心地であり、その文化の違いから、ヤマトとは別の王家があったと観てもおかしくありません。

関連し、「復元!日本最古級の出雲の人物埴輪展」によれば、人物埴輪について、「とくに石屋古墳出土の力士・椅子に座る人・武人形埴輪などは、人物埴輪成立初期のセットとしては、日本国内最古であることが判明しました」とあります。

古墳を建造した関東のツングース系王家は、出雲がルーツで日本海を北上し新潟当たりから南下し関東に来たと拙ブログでは予想しておりますが、人物埴輪のルーツも出雲となると、出雲―新潟―群馬(関東)は古代から道ができており、ヤマトよりも交流があったものと思われます。

一方、古代における関東とヤマト(奈良)をつなぐ道ですが、東海道と東山道を通る道が知られております。

東海道は、静岡辺りから多くの大小河川が道を遮り、関東に行く道は開けていない。一方、東山道は長い山道ばかりで道は開けていない。結論として、ヤマトから関東へ行くには、東山道の方が確実だが、遠い関係にあったことが知られております。詳しくは「大宝律令(701年)に関東は含まれていなかった」を参照願います。

なお、群馬にはヤマト朝廷から贈呈されたと思われる鏡「三角縁神獣鏡」が多数出土しております。「三角縁神獣鏡」は4世紀に製造され、ヤマト朝廷と臣下の関係を示す証として全国に配られたものと言われております。しかし、群馬は遠く、その後、系統的な関係は続かず、ヤマトと関東の王家は、それぞれ、独自の道を進んだのではないかと思われます。

なお、「三角縁神獣鏡」については、「三角縁神獣鏡が近畿に多い理由愚考」を参照願います。

まとめますと、埴輪の種類や発展経過から観ても、ヤマトと関東の王家は、それぞれ独立して発展した可能性が高いと思われます。その一つの理由として、両者の間に道が整備されていなかった問題が考えられます。

関連し、埴輪の流れと古代国家の関係について、上トップ図に示しました。



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[ 2022/02/03 10:46 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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