日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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蘇我家は6世紀最大の権力者愚考 [2022/03/31]
古墳埋葬者は何故不明なのか愚考 [2022/03/24]
継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代) [2022/03/17]
神武天皇は継体王だった [2022/03/10]
神武東征の時代背景の矛盾 [2022/03/03]
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蘇我家は6世紀最大の権力者愚考
蘇我家は6世紀最大の権力者愚考
(古代史の問題)
前回、奈良で最大、かつ、6世紀最大の「丸山古墳」の埋葬者は、時の権力者の蘇我稲目の墓ではないかと推察しました。
関連し、今回は、その6世紀の時代背景や「丸山古墳」の埋葬者が不明になった理由について愚考します。
まず、その時代の継体天皇(大王)と家来(有力豪族)の関係は上トップ図のとおりです。当時の政権運営は、大王と豪族の合議によって行われていました。
6世紀の大王(天皇)は8名居ますが、10年以上の在位者は、継体(507~531、24年)、欣明(539~571、33年)、敏達(571~585、14年)、推古(592~627、37年)の4名です。
そして、蘇我家は、天皇から財務担当大臣に任命されていて、高麗(こま)→稲目(570年没)→馬子(626年没)と代を重ねました。さらに、稲目は妃を欣明天皇と用明天皇に出し、かつ、それら孫は用明天皇と推古天皇となっています。
一方、当時の有力豪族は、蘇我の他に物部と大伴が大連(役軍事担当)として知られておりますが、6世紀にいずれも失脚しております。大伴氏は北九州磐井との戦い(磐井の乱 527年)で失敗し失脚したと言われています。一方、崇仏派の蘇我と廃仏派の物部の仏教導入に対する対立は有名で、この対立から戦争になり、物部は587年に滅びました。
以上の経過から、丸山古墳建造時代(6世紀後半)の権力構造を見ますと、天皇(当時は大王)に次ぐ権力者は蘇我家以外には考えられません。また、天皇と蘇我家の関係は、崇峻天皇(在位:587~592)が蘇我馬子に暗殺された経過をみても、蘇我家の方が権力者だったと見ることができます。
拙ブログでは、継体天皇は、ツングース系王家を滅ぼし、507年にアイヌ系新王家を始めたことを検討してきました。しかし、その王家は小さく、豪族の支えによって支えられてきました。詳しくは「
継体王、小さな王宮、初代天皇か
」を参照願います。
そして、大王家が名実ともに最高位になったのは天武天皇(在位:673~686年)からです。詳しくは「
古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考
」を参照願います。
そこで、6世紀後半の巨大な丸山古墳の埋葬者ですが、以上の経過から、この時代の権力者は蘇我稲目であり、丸山古墳の埋葬者は彼以外に考えられません。
そして、丸山古墳は破壊され盗掘に会っていますが、その理由を考えますと、次のことが考えられます。
まず、天皇家を超えた振る舞いの結果、蘇我家(入鹿)は乙和の変(645年)で中大兄皇子らに滅ぼされました。このためか、その入鹿の埋葬場所はまだ特定できていません。
その前の馬子と蝦夷の墓は有名な石舞台古墳と言われております。これは、巨大な石室がむき出しになっていることで有名ですが、おそらく、蘇我家を恨む者がした仕業と思われます。
そして、その前の時代が蘇我稲目で、彼の墓は当時最大の丸山古墳で間違いないと思われますが、さらに検討しますと、その古墳は盗掘に会い、かつ、方墳部分がかなり破壊されていることが指摘されます。
この破壊は、彼の古墳は時の大王(天皇)の墓を超えており、蘇我家が滅びた後、石舞台古墳と同じように蘇我家を恨む者に破壊され、その後、管理するものは無く放置された結果と思われます。
まとめますと、6世紀最大の古墳は、6世紀最大の権力者の蘇我稲目の墓と推察されます。その墓が盗掘や破壊を受けたのは、後に蘇我家は滅び、管理者がいなくなった結果と思われます。
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[ 2022/03/31 10:32 ]
古代史の問題
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古墳埋葬者は何故不明なのか愚考
古墳埋葬者は何故不明なのか愚考
(古代史の問題)
DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家はアイヌ系であることがわかりました。そして、初代のアイヌ系大王は継体王(在位:507-531年)であることがほぼ確実です。そのことから、古墳時代のツングース系王家(3~5世紀)は継体王によって滅ぼされたと判断されます。
一方、DNA以外にそのことを示す根拠の一つとして、近畿では継体王以前の陵墓は埋蔵者不明であることが指摘されます。王陵があったことは確かですが、埋葬者関連の資料がまったく残っていないのです。
例えば、日本書紀や古事記に王名が書いてありますが、それら王の実在を示す資料がありません。例えば、世界遺産「仁徳天皇陵」がありますが、世界最大の規模の王陵ですが、記録がありません。詳しくは「
世界遺産「仁徳天皇陵」で適切か
」を参照願います。
関連し、古墳埋葬者が何故不明なのか、このことについて今回は愚考します。
埋蔵者不明の理由としてこれまで指摘してきたとおり、2点あると思われます。
1点目は、ツングース系王家があったことを隠すためです。日本の正史と言われる日本書紀ですが、万世一系の偉大な天皇を主題として描かれていますので、これ以外のこと、すなわち、ツングース系王家があったこと等は書けない背景がありました。この方面は、古事記や関連する地方の歴史書(風土記)にも一貫しており、完璧です。
2点目は、ツングース系王家はアイヌ系等の豪族に滅ぼされましたが、その過程で、勝者が財産や土地(農地=水田)を強奪したことがあります。これらのことは恥ずべき行為であり、表に出せないことだったと思われます。
例えば、関東にもツングース系王家由来と思われる多数の古墳が知られていますが、すべて埋蔵者不明です。関連し、地方の古代史を著述した常陸国風土記がありますが、古墳埋葬者のことは不明です。おそらく、中央の指示で書いてはならないことだったと判断されます。
一方、古墳埋葬者が分かっている例があります。それらは著者の知る限りですが上トップの表の通りです。
まず、磐井の乱で知られている筑紫君磐井です。彼は筑紫国風土記に記載されていて、古墳建造時期も矛盾なく、ほぼ間違いないと思われます。彼はツングース系王家とは別の王家(北九州倭国)でしたが、倭国の王ではなく、筑紫君磐井としての古墳として残ったものと思われます。
次に、拙ブログで現天皇家の初代として紹介している継体王です。彼の陵墓は今城塚古墳ですが、多くの研究者の支持があり、これも間違いないと思われます。詳しくは「
継体王、小さな王宮、初代天皇か
」を参照願います。
最後に、丸山古墳です。丸山古墳は全長318mで奈良では最大の古墳で、かつ、建造年は6世紀後半、古墳時代最後の巨大古墳です。その横穴式石室は日本最大、強大な権力者が葬られた感じがします。しかし、埋蔵者は不明と言うから驚きです。
そこで、Wikipedia(丸山古墳 (橿原市) )を見ますと、斎藤忠(『古墳文化と古代国家』至文堂、1966年)の説として、蘇我稲目説が紹介されております。その埋葬者を6世紀後半の最大の権力者、かつ埋葬地域を支配していた者として推察しますと、蘇我稲目というのは妥当と思われます。このことについては、次回、さらに検討します。
以上の3名の古墳(前方後方墳)は、ツングース系王家が滅びた後に建造されたものです。ヤマト朝廷に認められた者だけが前方後円墳建造が認められたという説(前方後円墳体制)がありますが、ツングース系ヤマト王家が滅びた後にも丸山古墳(前方後円墳)が建造されていたことになります。これは、拙ブログで何度も指摘していますが、前方後円墳体制は無かったことを意味します。
前方後方墳体制については「
前方後円墳体制はあったのか愚考
」を参照願います。
まとめますと、ツングース系王家が滅びた後の古墳については埋蔵者が分かっていて、それ以前の古墳埋蔵者がまったく分からないことは、ツングース系王家がアイヌ系継体王によって507年に滅ぼされたとき、その歴史も抹殺された結果と結論されます。
関連し、日本書紀は、万世一系の偉大なアイヌ系天皇を命題に8世紀に創られましたが、そのアイヌ系天皇家の前にツングース系王家があったことを示す巨大古墳については、日本書紀の命題に合わないので無視するという大執筆方針があったものと思われます。
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[ 2022/03/24 08:23 ]
古代史の問題
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継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)
継体王と百済「部寧王」の関係(西日本の古代)
最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、現天皇家のルーツはアイヌ系継体王(在位:507-531年)であることを明らかにしました。
これは、天皇家のルーツは朝鮮半島由来の弥生人(ツングース系)であったという通説を否定するもので大発見と思われます。
拙ブログでは、このアイヌ系継体王の登場は、古墳建造に従事させられてきたアイヌ等の縄文系の人びとの反乱の結果と観てきました。
一方、北九州倭国は百済と合同して北のツングース系大国「高句麗」と戦ってきたことは知られているところです。北九州倭国と百済は同じ中国南部由来のマレー系稲作民族です。両国が協力関係にあるのは、同じ民族ですので不思議なことではありません。
因みに、百済は一般に「ひゃくさい」と読みますが、日本読みでは「くだら」です。なぜ「くだら」なのか謎に満ちていましたが、拙ブログでは、その呼称はマレー語に由来し、意味はKudara(同胞、兄弟)、すなわち、百済と倭国は「くだら」(同胞、兄弟)だったと理解しました。詳しくは「
古代国家「くだら」の国名由来
」を参照願います。
一方、ヤマトのツングース系王家に対しては、アイヌ系の継体王とマレー系北九州倭国の倭王「武」が共同して戦い、百済が陰で両者を支援していたことを拙ブログでは検討してきました。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、継体王と百済の関係について検討します。
これらの関係について「
倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係
」で拙ブログで紹介したことがありますが、今回はさらに踏み込みます。
まず、関連の記事として、「
古代史の謎「継体天皇新王朝説」を追う!(最終回)[百済王からの鏡]
」がありますので、紹介しますと次のとおりです。
隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ=和歌山県橋本市)に伝わる鏡には「癸未(みずのとひつじ)年八月」で始まる四八文字が刻まれています。
「癸未年」を西暦503年とし、そこにある「男弟王」を「ホド王=継体」と解釈しますと、503年に百済(朝鮮)の武寧王(ぶねいおう)が大和の忍坂宮(おしさかのみや=桜井市)にいた継体にその鏡を贈ったと理解できます。
ここで問題になるのが癸未年です。
その年は武烈天皇の父とされる仁賢(にんけん)天皇の治世だからです。
百済の王が外交交渉相手として鏡を贈っているくらいですから、継体はその時点で皇位継承者とみられていたと考えられます。
そうなりますと、継体が地方豪族であるはずはなく、仁徳朝の皇統のどこかに繋がる王だったという話になるのです。
ただし、皇族の一人とはいえ、傍流に位置し、近江や越前などの地方豪族に養育される立場であったと考えられます。
仁賢の次に武烈が即位しますが、『日本書紀』に凶暴性が記載されるとおりの天皇であったのだとしたら、早くから、その次の天皇として継体に期待がかかり、だからこそ百済の王が彼に接近を図ろうとしたともいえます。
そうして武烈の崩御後、政権内の派閥争いなどがあって皇位継承は順調にいかず、混乱が生じた――そう結論付けることはできますが、あくまで仮説にすぎません。
仁徳朝と継体朝の間に皇統の断絶があったのかどうか、邪馬台国論争とともに大きな古代史の謎といえるでしょう。
(引用終了)
本記事は、503年に部寧王が継体王に鏡を送った記事ですが、このことは、継体王が大王となる507年以前から両者には関係があったことを示します。拙ブログでは、継体王を百済と初めて外交したヤマト朝廷の王として紹介してきましたが、大王になる前から百済と関係があったことになります。
また、このとき、継体王は男弟王と部寧王から呼ばれております。これは、部寧王の弟の扱いです。すなわち、継体王は部寧王の弟分であり、応援を得ていたことになります。そして、507年に大王となる前に、大王になる予定であったこと、あるいは、ツングース系王家を滅ぼし、すでに大王となっていたことが伺えます。
当時、北九州倭国と百済は同盟関係にあり、同盟の使者として部寧王は北九州倭国に滞在し倭王「武」と名乗っていたことが知られております。詳しくは「
倭王武は百済の武寧王になった
」を参照願います。
これらのことから想像しますと、倭王「武」は、継体王と共謀しヤマトのツングース系王朝と戦い、その王朝が滅亡されるのを見て、本国(百済)に帰り、502年に部寧王を名乗り、503年に仲間の継体王に鏡を送ったのではないかと思われます。
まとめますと、継体王はツングース系王朝を滅ぼしヤマトの新大王と507年になりましたが、その陰には北九州倭国と百済の支援があったものと思われます。強大なツングース系王朝を倒すためには継体王単独の力では不可能だったと思われます。
関連し、何度も指摘していることですが、このことは日本の正史と言われる日本書紀には書いてありません。その理由は、万世一系の偉大な天皇を題に日本書紀は描かれていますので、それに反すること(北九州倭国の存在等)のことは書けない背景があったことと思われます。
関連し、上トップ図に、倭王「武」、百済「部寧王」、継体王の関係について紹介しました。
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[ 2022/03/17 08:52 ]
未分類
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神武天皇は継体王だった
神武天皇は継体王だった
(日本書紀は創作)
これまで、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツはアイヌ系、初代は継体王(在位:507-531年)、その継体王が日本書紀の神武天皇に当たることを検討してきました。
なお、現天皇家のルーツについては「
天皇家のルーツはアイヌ系の継体王
」を参照願います。
関連し、今回は、神武天皇=継体王について、さらに検討します。
まず、壬申の乱(672)に勝利し、日本を最初にほぼ統一した天武天皇の命により、偉大で万世一系の天皇家をテーマ(主題)に日本の正史と言われる日本書紀は作られました。
この天皇家を褒めたたえるという目標のため、巨大古墳を多数建造した朝鮮半島由来のツングース系王家、さらには北九州にあった邪馬台国や倭国の存在は無視するという方法が取られました。詳しくは「
歴史的事実で日本書紀に書かれていないこと
」を参照願います。
また、偉大な天皇家とするため、天孫降臨という方法を用い、天皇家はアマテラスという太陽神の子孫であることとし、その天孫降臨の場所を宮崎県高千穂としました。その流れは、アマテラス(神話)・・・山彦(神話)・・・神武(現世)という流れです。
また、ツングース系王家には、本家のヤマトのほか吉備と日向に分家があり、継体王が大王となるためには、これら本家と分家を滅ぼす必要があったことを拙ブログでは検討してきました。
まず、日本書紀では、神武東征の始まりは宮崎でした。
何故、宮崎の山間地(高千穂)なのかですが、おそらく現天皇家と同じアイヌ系が多く居たところ(山彦の名前の由来とも関連)、一方、平地は古墳が多くツングース系王家の分家があったところであり、宮崎はその分家が最初に滅びた場所だったため、神武東征の始まりの場所としてふさわしい場所に選ばれたことと思われます。
しかし、宮崎のツングース系王家が滅びた後、先に紹介しましたように南九州の隼人が支配していた可能性が大で、ヤマト朝廷の宮崎支配は8世紀になってからになります。
また、この宮崎のツングース系王家滅亡には、縄文系の多かった南九州のアイヌ系や隼人の人びと、さらには北九州倭国が加わった可能性もあります。
当時、北九州倭国は、朝鮮半島南部をも支配する倭王「武」の時代でした。次の目標として、隣にあった宮崎のツングース系王家滅亡があったと思われます。
倭王「武」について、詳しくは「
古代の大王は天武天皇と北九州倭王「武」愚考
」を参照願います。
その北九州倭国と継体王の連合の可能性として、継体王はマレー系の百済と最初に外交したことが挙げられます。当時、北九州倭国と百済はマレー系で、両者は兄弟の関係にありましたので、継体王と北九州倭国と百済の3者連合があったことになります。
この連合を示すものとして、百済「武寧王」が継体王即位(507年)前の503年に継体王に贈った鏡があります。さらには、熊本産のピンクの墓石があります。ピンクの墓石は当時流行だったようで、熊本からヤマトに運ばれました。それを可能にしたのは上記の三者連合だったと思われます。詳しくは「
倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係
」を参照願います。
残念ながら、倭王「武」については日本書紀に書いてありません。これは、冒頭で紹介しましたように、万世一系という天皇像に合わないため、倭国を故意に無視して日本書紀は創られたためです。
そして、宮崎のツングース系王家が滅びた後、神武東征の次の目標地は吉備(岡山)の支配になりました。吉備については、巨大古墳の多いことから、これもツングース系王家の分家があったところと拙ブログでは観ています。詳しくは「
吉備国はツングース系王家の本家だった
」を参照願います。
日本書紀では、神武天皇は吉備に長期間(8年)滞在したとありますが、吉備は大国であり、その征服は簡単でなかったと読み取れます。
おそらく、継体王=神武天皇は出身地の福井から仲間を集め吉備を攻め、さらには、倭王「武」はマレー系であり、吉備はもともとマレー系居住地であったことから推察しますと、吉備の攻撃にも協力した可能性があります。すなわち、吉備は、東から継体王、西から倭王武に責められ、滅亡したと思われます。
ついで、継体王はヤマトに向かいました。ツングース系王家の都のあったところで、神武東征によれば、最初は西側から向かい撃退されます。次に、紀伊半島南端を回り、熊野に上陸し、ヤマト支配に成功します。
三重など東海地域は縄文遺跡の多いところですが、そのことから推察しますと、アイヌ系の仲間も多く、アイヌ系の継体王は戦いやすかった可能性があります。さらには、岐阜・長野など縄文勢力を集め、総攻撃をした可能性もあります。
以上、神武天皇=継体王がツングース系王家を滅ぼし、新アイヌ系王家を創った経過について愚考しました。しかし、神武東征(日本書紀)では、宮崎での戦いもなく、かつ、吉備での戦いもなく、神武東征のほとんどは創作だったことになります。
関連し、それらの経過について上トップ図に示しました。
図では、倭王「武」の協力があったことを紹介しております。また、薩摩を含む南九州の隼人は宮崎(日向)のツングース系王家を滅ぼすことに協力したとしております。強大なツングース系王家を倒すには、継体王だけではできなかった戦争と思われます。
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[ 2022/03/10 08:49 ]
日本書紀は創作
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神武東征の時代背景の矛盾
神武東征の時代背景の矛盾
(日本書紀は創作)
拙ブログでは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)を基に、現天皇家のルーツはアイヌ系であることが分かったことを紹介しています。
日本の正史と言われる日本書紀では神武天皇が初代天皇となっていますが、万世一系の天皇家ですので神武天皇もアイヌ系になります。
また、日本書紀では、神武天皇は、宮崎県の高千穂に降臨し、東征し、奈良(ヤマト)の反対勢力に打ち勝ち、奈良に都を建設したと述べています。
当然のことながら天孫降臨は創作ですが、このストーリイは時代背景にも矛盾が多い内容となっています。
関連し、今回は、神武東征の時代背景の矛盾について検討し、古代史の真相に迫ります。
まず、神武東征の時期ですが、ヤマト(奈良)に最初の巨大古墳(箸墓古墳)が建造されたのが3世紀ですので、この古墳を最初の天皇の陵墓、すなわち神武天皇の陵墓と見ることが一般的な感じです。
また、3世紀は邪馬台国大乱の時期で、北九州では争いごとが多いが、東に争いのない平和な地があるので、神武天皇はそこに都を構えようとしたと日本書紀から読みとれます。その意味で神武天皇東征時期は3世紀と見ることができそうです。
しかし、その後の内容が歴史的事実と合致しません。
まず、宮崎(日向)から船で大分に向かったとありますが、当時3世紀は、まだ多数の人数を乗せることができる構造船はできていません。構造船が現れるのは5世紀からです。詳しくは「
馬とツングース系王家
」を参照願います。
次に、吉備国(岡山)を経てヤマト(奈良盆地)に向かい、旧ヤマト勢力と激しい戦いになります。この戦いでは、兄が戦死し、やむを得ず後退しました。そこで、戦術を変え、紀伊半島南岸を通り、東の三重に上陸し、そこから攻め入り、激しい戦いをし、勝利しました。
この場面での問題は、3世紀に、神武天皇が激しく戦わなければならない巨大な勢力がヤマトにあったかどうかです。
3世紀は、ヤマトではツングース系王家が多数の人員を動員し巨大古墳を建造し始めた時代です。すなわち、神武天皇が戦った相手はツングース系王家になります。
しかし、史実から見て、アイヌ系の神武天皇が3世紀あるいはそれ以前にツングース系王家と戦って勝利したというストーリイはあり得ません。その後に建造された古墳の中にある遺跡物は朝鮮半島由来のものばかりで、それらのことが、アイヌ系王家が3世紀には無かったことを物語っています。
以上、まとめますと、アイヌ系の神武天皇が3世紀にツングース系王家と戦い勝利し、ヤマトで新王家を始めたというストーリイはあり得ません。
そこで、この神武東征の時期を、大勢の人が乗ることのできた構造船が開発された5世紀としますと、それはアイヌ系の継体王(在位:507-531年)が王家を開いた直前のこと、かつ、日向(宮崎)、吉備(岡山)、ヤマトでそれらの王家が滅びた時期であり、史実と一致します。すなわち、神武天皇=継体王になりますが、この続きは次回に報告します。
なお、神武東征と関連し、3世紀の状況について、上トップ図に示しました。
日本史ランキング
[ 2022/03/03 09:47 ]
日本書紀は創作
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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