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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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「天皇家はアイヌ系」初めに


継体王のY染色体遺伝



「天皇家はアイヌ系」初めに
(天皇家はアイヌ系)

また暑くなってきました。これからが夏本番という感じでしょうか。

さて、今回は、「天皇家はアイヌ系」まとめの出だし文の「初めに」について紹介します。

最近のDNA研究の結果、天皇家はアイヌ系であることが分かりましたが、その発展にはめざましいものがあります。

人には46本(2N=46本=23対)の染色体があり、1対(X、Y)が性染色体で、XXが女性、XYが男性になります。Y染色体は男性親から男性子に伝わります。すなわち、男性子孫は同じY遺伝子を持ち続け、そのY遺伝子を調べると男性の祖先のDNAが分かることになります。

そのイメージは下図のとおりです。

Y染色隊と遺伝

そして、Y染色体ですが、巨大なDNAの塊で、この巨大なDNA配列から男性のルーツ分類が可能になり、さらには民族分類(ハプログループ=ハプロタイプ)も可能になりました。

天皇家の男性子孫については2007年頃から報告があり、2016年にはほぼ確定しました。

その結果、天皇家男性のY染色体ハプログループは、「著名なY染色体 D系ハプログループ」によれば、D1b1a2b1a1型であることが分かりました。この遺伝子は、北海道アイヌと同じD1型であり、D1の中のD1b1a2b1a1型ということになります。

これまで、天皇家のルーツは朝鮮半島由来の弥生系(ツングース系)と思われてきましたが、真相は日本先住民族のアイヌ系でした。

これは歴史的大発見と思われますが、まだ、新聞、書籍では発表されていません。このことについて検討しますと、次のような雰囲気が感じられます。

例えば、日本には古墳時代があり、その時代に作られた巨大古墳は天皇家が残したものと思われてきました。しかし、それらは、現天皇家の前の王家、朝鮮半島由来ツングース系王家が遺した物で、現天皇家のアイヌ系天皇家が遺した物ではありません。

このため、日本の古代史は大変な修正が必要です。このためでしょうか、最近の書籍の特徴として天皇家のルーツについては言及がありません。因みに、最近発行のベストセラー著「日本国記」(2018 百田尚樹)にも書いてありません。

現天皇家はいつから始まったかですが、多くの指摘がありますが、それは第25代の継体王(天皇)(在位:507-531年)の時代でほぼ間違いないと思われます。

その最大の理由は、継体王の前の王(天皇)については、神武天皇とか仁徳天皇と偉大な天皇の名前が日本書紀や古事記にありますが、彼らの子孫がまったく分からないことです。仁徳天皇は偉大な天皇と言われていますので誰か子孫が居てもおかしくないのですが、誰も見つからないのです。

さらには、継体王の前の天皇については、王宮跡不明、王陵跡不明、在位年代不明で、日本書記や古事記以外、物的証拠が何もないのです。

そこで、この日本書紀について検討しますと、日本の正史と言われてきましたが、現天皇家は万世一系、偉大な天照大神を祖とする偉大な天皇という書として描いたもので、津田左右吉等の多くの報告があり、明らかに創作です。

一方、現天皇家の祖先と指摘されている継体王ですが、百済本記という書物があり、継体王と百済の外交関係が紹介されています。さらには、王宮跡、王陵跡も発掘が進み明らかになっていますので実在は確実です。

以上のことから、継体王の存在は確実ですが、継体王の前の大王(天皇)のことは明確な物的証拠がまったくありません。

そこで、真相ですが、古代遺跡から推察すると次のように考えられます。まず、近畿を最初に統一したのは、従来どおり、鉄器を導入し、水田稲作を普及させ弥生時代を作った朝鮮半島由来のツングース系王家でした。

ツングース系民族は、満州で発生したモンゴル系と中国系の混合混血民族で、朝鮮半島には5000年前頃に移住し、その後、日本に移住し、弥生人となったとみられます。

古墳時代になると、彼らは、ツングース系王家を奈良に作り、縄文時代から居たアイヌ系等の人びとを使い、巨大古墳多数建造しました。それらの建造は250年頃から続き、250年後の500年頃、使役された人民の怒りは頂点に達し、巨大古墳建造王家については跡形もなく破壊・抹殺されたと思われます。

その反抗の中心人物は、上記指摘のように継体王になります。

そこで、拙ブログでは、こうした歴史的大発見をベースに、日本の古代史を再検討してみたいと思っています。

関連し、天皇家の始祖「継体王」のルーツについて、「著名なY染色体 D系ハプログループ」を基に上トップ図に示しました。継体王の子孫に聖徳太子が居ますが、その子孫も他の天皇と同じY染色体を持っていることが分かります。

また、「天皇家はアイヌ系」のまとめ詳細(目次)は下記のとおりです。

(目次)

タイトル:天皇家はアイヌ系

初めに(今回の報告)

1. 日本民族のルーツ
1) 日本人は3大民族の混合混血
2) 先住民族アイヌ系のルーツ
3) 稲作民族マレー系のルーツ
4) 朝鮮半島由来弥生人ツングース系のルーツ

2. 古墳王家は何故滅びたのか
1)古墳王家のルーツと鉄・稲・馬
2)古墳建造は大規模事業
3)古墳王家は宮崎から滅びた
4)古墳王家は関東にもあった

3. 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた
1) アイヌ系の継体王が新王朝を開始
2) 百済はマレー系王朝
3) 北九州倭国もマレー系王朝
4) 継体王はマレー系と連合した
5) 継体王は百済から先進文化導入

4.日本書紀は創作
1)日本書紀に縄文・弥生・古墳時代がない
2)稲作がなぜ書かれてないのか
3)邪馬台国が何故書かれてないのか
4)倭の五王が何故書かれてないのか
5)白村江の戦いは虚構
6)出雲国が重視される理由

5.日本語と神社のルーツ
1)日本語のルーツはアイヌ語
2)神社のルーツはアイヌの自然信仰

終わりに



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[ 2022/07/29 15:06 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

これからの記事アップ予定


菜園自生の花1


これからの記事アップ予定(ごあいさつ)

暑さが戻ってきました。これからが夏本番という感じでしょうか。

さて、拙ブログは、「日本人の縄文思想と稲作のルーツ」というタイトルで、古代の日本民族の様相について、2017年4月から記事アップを続けてきましたが、5年間が過ぎ、記事アップ数は463回となり、書きたいところは出尽くした感じがします。

そこで、次のテーマとして、いくつかの大課題を設定し、これらの記事をまとめ直したいと考えています。

それらの大課題は次のとおりです。

1. 天皇家はアイヌ系
2. 稲作発展と歴史変貌
3. その他(日本史の虚像など検討中)

そして、最初の大課題は「天皇家はアイヌ系」です。

最近の古代史研究でもっとも画期的な発見は、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、現天皇家のルーツがアイヌ系であることが2016年頃に分かったことと思われます。

アイヌ系は日本では先住民族(原住民)と言われていますが、「原住民の勝利は世界史的にも稀ですね」という評価を、ブログ読者からいただきました。詳しくは前回記事(本記事の次の記事)のコメント参照願います。

また、これまで常識となっていた「朝鮮半島由来の弥生人が現王朝(ヤマト朝廷)を創った」という歴史認識を変更しなくてはなりません。

しかし、近刊書を見ますと、「天皇家はアイヌ系」について言及している書籍はありません。その理由の詳細は分かりませんが、これまでの情報を否定することになるので公表しにくい内容なのかもしれません。

次に、本書の内容(目次)ですが、次(下表)のように考えています。

また、記事アップは周1回、金曜日を予定しております。どうぞよろしく。

(目次)
大課題:天皇家はアイヌ系
はじめに
1. 日本民族のルーツ
2. 古墳王家は何故滅びたのか
3. 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた
4.日本書紀は創作
5.日本語と神社のルーツ
終わりに


なお、上トップと下の写真は我が有機菜園に自生している可憐な野草です。

菜園自生の花2


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[ 2022/07/21 18:45 ] ごあいさつ | TB(-) | CM(0)

ツングース系からアイヌ系への権力移行とDNAの背景


関西(近畿)の各民族DNA割合と縄文グループ連合


ツングース系からアイヌ系への権力移行とDNAの背景(日本の古代)

日本古代史の最大事件は、古墳時代後期、支配者が朝鮮半島由来のツングース系王家から先住民族アイヌ系の<継体王(在位:507-531年)に変わったことと思われます。

これらは、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)から、分かったことですが、通説を覆す大発見と思われます。

関連し、今回は、その事件の背景について各民族のDNA割合から愚考します。

まず、現代人のDNAですが、それは前々回紹介の記事の通りです。古墳時代以降、民族渡来について大きな変動が無かったことから推察しますと、各民族のDNA比率は古墳時代以降はほぼ同じであったと推察されます。

そこで、前々回紹介の記事の数値を用い、アイヌ系等の縄文系と、当時の支配者だった半島由来ツングース系を比較しますと、下図のとおりです。すなわち、権力者のツングース系は明らかに少数派です。例えば、中心地だった関西(近畿)を見ますと、縄文系は58%、ツングース系は28%で、ほぼ2:1の比率です。

縄文系とツングース系の地域別分布

当時、墳長200mを超える巨大古墳が近畿だけでも33基建造されていますが、ほとんどはツングース系王家の遺跡と判断されます。これらの巨大遺跡は、例えば墳長最大の400mを超える巨大古墳の仁徳陵ですが、延べ680万人が動員されたと推察されています。詳しくは「世界最大の大仙陵古墳建造の経過愚考」を参照願います。

これら、巨大古墳建造は、ツングース系の人々だけの人員では不可能で、縄文系の人々を使い建造された理解されます。この結果、縄文系の人々の古墳建造への不満は高まっていったと予想されます。詳しくは「巨大古墳建造の真相と民衆の怒り」を参照願います。

縄文系の中でも、多数派のアイヌ系の怒りは相当だったと予想されます。そこで、アイヌ系とツングース系の地域別比率を見ますと、下図のとおりです。

アイヌ系とツングース系の地域別分布

舞台の中心の関西(近畿)地域、そして近隣の中国、北陸は、アイヌ系とツングース系の比率が、それぞれほぼ30%と拮抗している感じです。

この拮抗している関係から想像しますと、ツングース系王家に対抗するにはアイヌ系単独では不十分と思われます。そこで、その他の縄文系(特にマレー系A)やツングース系以外の弥生系(特にマレー系B)がアイヌ系に協力し、それらの連合が勝利したと判断するのが妥当と思われます。

マレー系Aは、前回紹介しましたように、縄文時代から居た海洋系の民族です。長い付き合いから言葉も通じていた可能性があります。そして、後に藤原家となる中臣家はマレー系A(縄文系)の出身であることが最近のDNA研究から分かりましたが、アイヌ系初代王家の継体王(在位:507-531年)時代からの豪族だったと思われます。詳しくは「藤原家のルーツはマレー系A愚考」を参照願います。

さらには、当時、ツングース系と対立していた弥生系マレー系Bもアイヌ系連合に加わった可能性も否定できません。マレー系Bは弥生時代に水田稲作を大陸から導入し、北九州倭国の基になった民族であると拙ブログでは観ています。

事実、アイヌ系の中心人物は継体王ですが、百済との関係が知られております。百済は、北九州倭国と同じくマレー系Bの稲作民族の国家ですが、同民族の北九州倭国と連合していました。詳しくは「継体王と百済「部寧王」の関係」を参照願います。

まとめますと、古墳時代末期、巨大古墳建造を続けてきたツングース系王家がアイヌ系継体王によって滅ぼされました。遺伝的背景から見ますと、近畿においてはツングース系とアイヌ系の割合はそれぞれ30%拮抗しており、アイヌ系単独で権力を奪取することは困難でした。そこで、アイヌ系30%に縄文系マレー系A20%と弥生系マレー系B10%が連合し、アイヌ系連合60%がツングース系30%に勝利したと判断されます。

これらの関係を上トップ図に示しました。



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[ 2022/07/14 17:31 ] 日本の古代 | TB(-) | CM(2)

関東の貝塚はマレー系Aが作った愚考


上高津の貝塚


関東の貝塚はマレー系Aが作った愚考(関東・東北の古代)

前回、「弥生系渡来民が来たとき、弥生系の人々は水田稲作のため平地を選んで居住しましたが、縄文系のアイヌ系は従来と同じく中山間に住み、また、縄文系のマレー系Aも従来と同じく海岸に住み海洋交易に関与していたのではないかと思われます」と結論しました。

関連し、今回は、縄文系のマレー系Aは、縄文時代、海岸に住み貝塚を作ったことについて、さらに検討します。

まず、貝塚については、東京湾岸、特に千葉に多いことが知られています。詳しくは「貝が関東の縄文人を救った」を参照願います。

また、東京湾の隣の霞が浦周辺も、同じく貝塚が多いことが知られています。我が家の近くの上高津貝塚(茨城県土浦市)もその一つで、そこには上高津貝塚ふるさと歴史の広場(考古資料館)があり、実物を見ることができます。

その場所は下図のとおりで、海岸(霞ヶ浦)から離れた陸地にあります。縄文時代は、縄文海進があり、この辺までが海岸だったようです。近くに荒川沖というJR駅がありますが、この地名は、この辺りが海岸だったことを示すようです。

上高津貝塚の場所

そして、この辺りは、関東平野の森からの水が流れ込み、栄養豊富で貝の育つには最適な環境だったようです。

貝塚の様子は上トップの写真のとおりで、資料館の画像を写したものです。

そこで本題の「関東の貝塚はマレー系Aが作った」ですが、その根拠は次の通りです。

1. 現代人のY染色体ハプログループ分類で、縄文時代の民族として、関東ではアイヌ系とマレー系Aが多数と認められるが、彼らの生活習慣から、アイヌ系は中山間に住み、海洋系のマレー系Aは海岸に住んでいた可能性が高い。

2. 茨城・千葉の人々の容貌は、マレー系に似て低身長や丸顔の傾向が認められる。

まず、1ですが、縄文時代の民族のアイヌ系とマレー系Aですが、前回資料を基にすると、地域別分布は下図のとおりです。関東では、アイヌ系は37%、マレー系Aは25%です。縄文時代、関東地方は人口が多かったことが知られていますが、その中で、マレー系Aも相当な人口があったと推察されます。

アイヌ系とマレー系の地域別分布


関連し、マレー系の人々の特徴ですが、故郷のインドネシアからアフリカのマダガスカルに移住したことは有名です。彼らは小柄であり、小さな小舟を操つることが得意な海洋系であり、海に親しい民族だった感じがします。詳しくは「古代海人族のルーツは海洋系マレーと思われる」を参照願います。

以上のことから想像しますと、縄文人のマレー系Aは海岸に住み、貝を主食に多数の人口があったのではないかと思われます。すなわち、マレー系Aは海の民と分類されます。

一方、アイヌ系ですが、栗を主食に中山間を中心に住んでいたことが知られていますので、アイヌ系は山の民と分類されます。

また、縄文晩期、寒冷化と火山噴火の影響で関東の人口は急減したことが知られております。こんななか、関東の海岸部では漁業の改善が見られます。これもマレー系Aの残したものと思われます。詳しくは「寒冷化時代、関東の縄文人は何処に住んで居たのか」を参照願います。

次に、2の茨城・千葉の人々の容貌です。

まず身長ですが、「北九州にマレー系民族が居たのか、現在の身長差から検討する」で紹介したことがありますが、北九州はマレー系の影響で低身長であることが明らかになりました。そこで、今回も同様な結果が得られるのか、同表を用い調べてみました。

茨城・千葉に対し、同じ海岸部にある北陸2県(新潟・富山)の2006年と2014年の身長(17歳男女)を比較しましたが、結果は下表のとおりです。

関東(茨城・千葉)と北陸(新潟・富山)の身長

本表から、茨城の身長は、男女とも、全国平均と同等か低い傾向が認められます。また、隣県の千葉も同様な傾向が認められます。この身長の特徴は低身長のマレー系の影響なのか断定はできませんが、可能性はあるという感じでしょうか。

なお、北陸(新潟・富山)の高身長は朝鮮半島由来ツングース系の影響と思われます。詳しくは「色白高身長、秋田美人のルーツ愚考」を参照願います。

おそらく、長い歴史経過の中で、貝塚を作った関東のマレー系の人々は、混血を繰り返し、マレー系の低身長という身体的特徴は明確には見えなくなってしまったのかもしれません。

一方、貝塚の多い霞が浦周辺の人々の容貌と関連し「霞が浦美人」でウエブ検索しますと、丸顔で可愛らしい顔立ちが多く出てきます。これは、マレー系美人の博多美人と同じ特徴です。このことは、霞が浦周辺はマレー系の人々が多かった地域であった可能性を示すものと思われます。

なお、博多美人については「丸顔、博多美人ルーツ愚考」および「秋田美人と博多美人のルーツの違い、身長差から」を参照願います。

まとめますと、縄文人には主要民族としてアイヌ系とマレー系Aが居ますが、アイヌ系は山の民、マレー系Aは海の民と分類されます。すなわち、茨城・千葉の貝塚は海の民のマレー系Aが作った可能性が高いと結論されます。事実、関東の人々はマレー系AのDNAの割合が比較的高く、かつ、茨城・千葉の人々に関しては、マレー系に似て低身長の傾向あり、また、茨城の霞が浦周辺にはマレー系に似て丸顔で可愛らしい顔だちが多い傾向が認められます。


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[ 2022/07/07 19:58 ] 関東・東北の古代 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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