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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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古墳王家は鉄と水田稲作で発展した


水田稲作普及経過


古墳王家は鉄と水田稲作で発展した

天皇家はアイヌ系 2.巨大古墳王家は何故滅びたのか 2)古墳王家は鉄と水田稲作で発展した

日本最初の水田稲作は、中国南部(揚子江流域)で稲作を行っていた越族(マレー系B)が北上し、山東半島を経て朝鮮半島南西部と北九州にもたらしたものです。

その稲作は、もともとの中国南部の稲作をモデルにしたものです。中国南部は雨期と乾期があり、乾期に農地(乾田)を除草し、播種します。その後、雨期の雨で稲が育ち、水がひいた乾期に稲を収穫する農法です。本方法では、雨期に水位が上がりますが、そのとき、稲が沈まない水位の場所であれば乾期に収穫できるという自然農法に近い稲作です。

本方法は、種播前に除草し、整地した土に播種するだけの技術で、最も簡単な農法です。かつ、畑作と異なり、肥料は森から流れてくる水の中に含まれており、肥料は入りません。また、水は殺菌作用があり、連作障害の基となる土壌病害の発生もありません。

本農法は低収ですが、畑作と比べると、確実に収穫が毎年あり、当時の農業としては最も安定した食料確保技術でした。この農法の結果、中国南部では、5000年前の畑作文化(黄河文明・竜山文化)に先行した揚子江文明が築かれました。その代表的遺跡が7000年前の河姆渡(カボト)都市遺跡と思われます。

日本で水田稲作が始まったのが3000年前の北九州の菜畑遺跡ですが、この農法は、上記中国南部と同じ乾田直播農法でした。古代の弥生水田を調査した那須(2014)の報告によれば、畑雑草が多かったことが明らかにされておりますが、これは乾田直播農耕の特徴です。

また、乾田直播稲作の適地ですが、こうした稲作を行うことができるのは、漏水の少ない低地平野部で温暖な場所だけです。

中山間部の多くは漏水問題があり、低地のような収量は得られません。漏水が多いと水田は貯めた水がすぐ無くなり、かつ水を入れると水は冷たく暖まりにくく、稲は夏を除き良好に生育できない環境になります。

なお、こうした漏水問題が解決し、中山間部でも稲作ができるようになったのは、漏水を防ぐ技術の確立、すなわち代掻きにより漏水を防ぎ、かつ、田植えが始まった時期からです。この時期は平安時代後期ですが、この方法が確立しますと、水田の価値は高まり、その水田を守るために武士が登場しました。また、「日本は豊葦原瑞穂の国」と言われるようになったのも平安時代後期以降のことになります。

北九州で3000年前に稲作が始まりましたが、それから、800年、ほとんど発展していません。その理由は、水田開発や水路開発のための鉄器の無かったためです。その意味で、鉄器を持ったツングース系が現れるまで、本格的水田開発は日本で無かったことになります。

次に、ツングース系が水田稲作をどこで学んだのかですが、弥生稲作の進んでいた朝鮮半島南西部と思われます。朝鮮半島では有名な弥生稲作遺跡として松菊里遺跡が知られています。ツングース系の主な居住地は隣の南東部ですので、おそらく、彼らは朝鮮半島南部で稲作を知り、日本に来たと思われます。

まとめますと、日本に移住してきたツングース系の多くは、畑作の経験があり、かつ水田稲作を知っており、かつ、水田開発に必要な鉄製農具を持っていました。一方、日本は、中山間にアイヌ系、海岸部にマレー系が住んでおりましたが、水田稲作適地の平野部にはほとんど人はおらず、日本移住後に、彼らは西日本の多くの平野部で水田稲作を独占的に行うことができました。

この結果、弥生時代、ツングース系民族はいち早く豊かになり、人口が増え、その中からツングース系王家が創る者が現われました。まさに、水田稲作は王家の基を創ったと判断されます。

なお、水田稲作の先輩に、日本では北九州に移住したマレー系Bが居ました。しかし、彼らは水田開発のための鉄器はもたず、かつ、日本に来た仲間は日本人全体の10%と少なく、日本ではツングース系が20%と多数であり、水田開発に遅れました。一方、朝鮮半島南西部ではマレー系Bは多く、朝鮮半島全体の20%も居て、後に百済建国の中心民族となりました。

また、繰り返しになりますが、マレー系は日本全体で30%居ますが、そのうち縄文時代に来たマレー系Aが20%、弥生時代に中国南部から来たマレー系Bが10%となっています。

関連し、水田稲作導入発展経過を上トップ図に示しました。



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[ 2022/09/30 11:06 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

古墳王家のルーツ


ツングース系王家の発生と発展(出雲と大和王家)


古墳王家のルーツ

天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか 1)古墳王家のルーツ

墳長が200mを超える巨大古墳が日本には38基あります。これらの内訳は、奈良に20、大阪に13、岡山に3、群馬に2となっており、奈良と大阪に合計33(87%)と集中しています。まさに奈良・大阪が古代の中心地でした。

また、墳長が200mを超える巨大古墳を建造するには延べ50万人以上の労力が必要と試算されていますが、強力な権力があることにより可能となった事業と思われます。

そこで、誰が権力者だったかですが、朝鮮半島由来のツングース系民族の王家であったことは遺跡の内容から間違いありません。

ツングース系民族は弥生人とも言われますが、彼らは、中国東北部(満州)で発生し、地球寒冷化に伴い、南下し、まず、朝鮮半島に定住し、朝鮮半島の先住民族となりました。

次いで、彼らは日本にも移住してきました。5000年前頃から移住してきましたが、本格的に移住してきたのは2500年前以降です。

そのとき、日本は縄文時代で、中山間部に栗を主食にしたアイヌ系、海岸部に貝類を主食にしたマレー系が住んでいて、水田稲作適地の平野部にはほとんど人は住んでいませんでした。特に近畿・中国・四国地域の平野部は人口過疎地帯で、争いもなく彼らは移住できました。

彼らがどのように日本に渡ってきたかですが、日本と朝鮮半島の間には対馬海流という激流が走っており、そこを横切ることは当時の丸木舟では困難です。しかし、縄文時代から交易があったことが知られております。おそらく、朝鮮半島南部(釜山)を出て、壱岐・島根辺りのルートが普通の航路であったと思われます。

また、彼らは、基本的には北方系畑作系民族ですが、朝鮮半島の南西部には稲作民族のマレー系Bが居て、水田稲作を3000年前から行っていました。おそらく、彼らは日本に移住する以前から水田稲作を知っていた可能性があります。

水田稲作は、次節「巨大古墳王家は鉄と水田稲作で発展した」で詳しく説明しますが、ツングース系の故郷(中国東北部=満州)から持ち込んだ畑作と異なります。すなわち、畑作は肥え切れや連作障害があり、連作が困難ですが、水田は、森から流れてくる水田の水の中には肥料が含まれており肥料施用を必要とせず、かつ、連作可能な多収技術です。

この水田開発には、水路造成等の土木工事が必要で、このため鉄製農具が必要です。幸い、朝鮮半島南東部の慶州(後の新羅の首都)に鉄の産地があり、彼らは、農耕に必要な鉄器をそこで入手できました。

彼らは、日本でいつから水田稲作を行い豊かになったかですが、古代の人口増加から推定しますと、人口増加が始まるのは2200年前頃と推定されます(下図参照)。この時期は、弥生時代水田遺跡増加と一致しますので。この時期から稲作が本格的にはじまったと見ることができます。

西日本地域の古代人口変動

北九州の遺跡を基に、稲作は3000年前に始まったと言われますが、その稲作は石器で行われたもので、普及困難な稲作で、北九州に本格的に稲作が普及したのは、人口増加曲線から見て近畿・中国と大差ありません(上図参照)。すなわち、本格的な水田稲作は、鉄器が導入された2200年前に始まり、人口が増え始めるのは300年後のAD100年頃のことになります。

この技術により集落は豊かになり、人口が増え、弥生時代に入りました。そして、さらに、人口が増え、集落が大きくなり、王家が誕生し、古墳時代に入っていきました。

稲作で豊かになった彼らは、最初に出雲に王家を築きました。3世紀前期ですが、その象徴的遺跡が島根県出雲の四隅古墳で、これは、我が国で最初の本格的古代遺跡です。また、多数の青銅器が発掘されたのは出雲(島根県)です。

さらには、古事記に国の始まりの関係で神話等多く記されている場所は出雲です。まさに、出雲に最初にツングース系王家があったことがを示唆されています。

しかし、出雲は狭く、水田稲作に適した平地も少なく、すぐ限界に達しました。そこで、出雲王家がより広い場所を求めて移った場所がヤマト(奈良)と思われます。

稲作を広めたツングース系は、出雲だけでなく、近畿、東海にも広がっていたことが弥生遺跡の分布から分かります。出雲王家は、そうした仲間の情報から、ヤマト(奈良)が日本の中心地であることを知り、そこに、出雲に代る新たな王家の場所を築いたのではないかと思われます。

そして、3世紀末、出雲王家は、ヤマトに新たな都を築きました。その象徴的遺物は纏向遺跡です。同時に、日本最初の巨大古墳の箸墓古墳(墳長276m)も建造しました。

ヤマトが出雲王家由来であることは、古墳から出土した埴輪にあります。ヤマトの埴輪の原型は出雲にあることが研究者から指摘されています。

そのときの新王家の支配地は、中国、近畿、東海だったと、古墳等の遺跡から推察されます。ヤマト以外の地域では、吉備(岡山)は弥生時代から発展していた地域でした。この地域の代表的弥生時代遺跡として「楯築遺跡」があります。

「楯築遺跡」は、北九州の邪馬台国や出雲王国と同時代の遺跡ですが、当時としては最大の円墳です。その円墳の形状や円墳頂上にある石造物からマレー系の遺跡と推定されます。近くには塩製造地もあり、弥生時代の中心地の一つだったと思われます。

一方、ヤマトの箸墓古墳に吉備産と見られる円筒土器が発見されています。そして、「楯築遺跡」の後、吉備にはツングース系王家の象徴とも言われる前方後円墳が多数建造されているところから推察しますと、吉備はマレー系からツングース系王家の支配地になり、塩、米、土器の生産で栄えたと思われます。

吉備には、200m以上の巨大古墳3基あり、ヤマト・大阪に次ぐ古墳密集地でした。おそらく、ここを拠点に東九州地域、特に宮崎を支配していったものと思われます。因みに、宮崎の古墳からも吉備産の円筒埴輪が発見されていて、吉備の延長線上に宮崎があったと推察されます。

関連し、ツングース系王家の巨大化の様子を上トップ図に示しました。


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[ 2022/09/23 12:46 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

古墳王家は何故滅びたのか


大仙陵Wiupedia


古墳王家は何故滅びたのか

天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか (第2章冒頭説明文)

古代のモニュメントとして墳長200mを超える巨大古墳が西日本に多数あることは一般に知られています。そして、その築造技術や古墳に埋蔵された埴輪等から、これらは朝鮮半島由来の巨大な権力者(ツングース系王家)の王墓として理解されてきました。また、日本の正史といわれる日本書紀等の内容から、それらは現天皇家が遺したものと理解されてきました。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、冒頭(はじめに)で紹介しましたように、現天皇家は縄文時代から居た先住民族のアイヌ系であることが判明しました。

このことは、古墳時代末期、朝鮮半島由来由来のツングース系王家と、先住民族のアイヌ系との間で権力闘争があり、アイヌ系が勝利したことを意味します。

この権力闘争の原因は、上記ツングース王家の巨大古墳建造に対する民衆の不満が限界に達した結果と考えられます。それ以外の原因は考えられません。

関連し、この章(古墳王家は何故滅びたのか)では、古墳時代(3~6世紀)の西日本に、巨大古墳を建造したツングース系王家(古墳王家)がいかに繁栄し衰えていったのかについて検討します。それらの個別課題は次のとおりです。

1)古墳王家のルーツ
2)古墳王家は鉄と水田稲作で発展した
3)古墳王家は馬と船でさらに拡大した
4)巨大古墳建造は民衆を疲弊させた
5)古墳王家は関東にもあった

なお、上トップ写真は、Wikipedia紹介のツングース系王家の象徴である日本最大の古墳(大仙陵古墳=仁徳天皇陵)です。墳丘長は486mで世界最大、建造には、土運搬に446万人など総作業員数が680.7万人と試算されています。


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[ 2022/09/16 12:55 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)

日本民族のルーツ 6)フイリピン系、北方アジア系、ケット系のルーツと影響


フイリピン系、北方アジア系、ケット系のルーツと移動


天皇家はアイヌ系、1. 日本民族のルーツ 6)フイリピン系、北方アジア系、ケット系のルーツと影響

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、パプア系5%、その他5%の混合混血民族です。今回は、極少数派ですが、その他5%のフイリピン系、北方アジア系、ケット系のルーツと影響したについて検討します。

まず、Y染色体ハプログループと頻度ですが、フイリピン系はO1aで3%、北方アジア系はNで1.5%、ケット系はQで0.5%程度です。

フイリピン系O1aは、地域的には西日本に多い傾向があり、マレー系O1bの兄弟であり、台湾先住民族やフイリピン人に多いことが分かっていります。

以上のことから推察しますと、彼らフイリピン系はスンダランド(インドネシア当たりにあった氷河期の大陸)でマレー系と同じように発生し、その後、北に向かい、フイリピン、台湾、沖縄を経て日本に来たと思われます。著者の観察では、マレー系よりさらに低身長な感じがします。

次に北方アジア系のNですが、Wikipediaによれば、ルーツは北方アジア、観察頻度はネネツ人に97%、 ガナサン人に92%、ヤクート人に88%、 フィン人に63%となっています。日本には3種のN(N1a1、N1a2、 N1b)が分散し、その一つ(N1a2)はネネツ人(サモエード人)です(下図写真参照)。

ネネツ人

写真では、ネネツ人は東北の日本人という感じです。彼らは、バイカル湖の北方辺りに住む民族ですが、ごく少数ながら、いかにも日本人のルーツらしく見えます。

最後にケット系のQですが、そのルーツは北方アジアのエニセイ川付近で、狩猟民族として知られています。

このハプログループは、おそらく、ユーラシア北部を東に移住し、アメリカ大陸に渡る1~5世紀頃に、一部の人々が南下し、日本に着いたものと推察されます。関連し、このグループは朝鮮半島でも極少数ですが発見されています。

Wikipediaによれば、そのシャーマンの容貌は下図のとおりです。アイヌ系よりさらに彫りが深く髭が濃い印象で、当然のことですが、北米のアメリカ先住民(アメリカインデアン)と同じ雰囲気があります。

ケット人シャーマン

なお、彼らは、インカ文明等を築いた中南米のインデオと異なり、比較的最近移住したグループで、移動時期は1~5世紀頃と推定されています。

彼らに似た容貌の埴輪が千葉県で発見されました。有名な芝山町立芝山古墳・はにわ博物館の埴輪(下図参照)ですが、山高帽をかぶり大きな髭を持った武人像です。髭の形、全体の顔の容貌などがケット人に似ており、彼らがモデルになったものと推察されます。

ケット人がモデルとなったと推定される千葉県の埴輪

事実、ハプログループQをもった人は、最近のY染色体ハプログループ調査で関東や近辺で発見されました。また、埴輪の制作時期は5世紀で、彼らが日本へ来た時期(おそらく1~5世紀)と一致しています。彼らは、一般の日本人とは異なる彫りの深いヨーロッパ人風の容貌があり、日本人の容貌の変異を大きくしていると思われます。

この埴輪をユダヤ人と見る説がありますが、ユダヤ人を代表するハプログループはJで、日本先住民の中に発見されておりません、また、ユダヤ人が日本に古墳時代に来たことを証明するものはありませんので、この説は根拠がありません。

まとめますと、日本に来た民族には、アイヌ系、マレー系、ツングース系の3大民族の他、少数民族のパプア系、フイリピン系、北方アジア系、ケット系があると結論されます。ケット系については、一般の日本人とは異なる彫りの深いヨーロッパ人風の容貌があり、日本人の容貌の変異を大きくしていると思われます。

関連し、パプア系を除くそれらの少数民族のルーツについて上トップ図に示しました。なお、これまで紹介の民族移動地図は最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)を参考に著者がまとめたものです。



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[ 2022/09/09 13:38 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(0)

南方由来パプア系のルーツと影響


Cグルループの発生と移動


南方由来パプア系のルーツと影響

天皇家はアイヌ系、1. 日本民族のルーツ 5)南方由来パプア系のルーツと影響


日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。その他10%にパプア系5%がありますが、今回はそのルーツと影響について検討します。

パプア系のY染色体ハプログループはC1です。C1関係では、日本の近くでは、パプアニューギニア高地人がいますので、パプア系と呼ぶことにします。ガッチリした体格で顔が大きく、縮れ毛などに特徴があります。生活スタイルは自給自足、自然に溶け込んで生きている特徴があります。

このような人々にオーストラリアのアボリジニー、南米のヤマナミ族などが知られていて、世界中に居ることが分かっています。

私がマレーシアに居たとき、森で自給自足をしているオランアスリ族の彫刻品に出会ったことがあります。その一部は下の写真のとおりですが、稲作民族のマレー系の人々に混じって細々と暮らしているということでした。

マレーシアのアスリ族の彫刻品

関連し、オーストラリアのアボリジニーも自給自足民として有名です。下の写真はオーストラリアの土産品として買ったものですが、独特の芸術品です。

パプア系アボリジニーの置物

私はまた、マダガスカルに住んだことがありましたが、そのとき、そのような自給自足をしている集団が50年前ぐらいまで居たことを聞きました。近代化の波に押され、いつのまにか居なくなり、存在が分からなくなっているようです。

日本では、そのような自給自足民に北海道アイヌとサンカと呼ばれる集団が居ました。北海道アイヌについては詳しく分かっていますが、サンカについてはほとんど分かっていません。もしかしたら、サンカと呼ばれる集団はパプア系の一部だったのかもしれません。

ハプログループ分類では、CグループはアフリカでBグループから分化し、北方ルートで北アジアに来たのがモンゴル系のC2、南方ルートで来たのがパプア系のC1と推定されます。

また、パプア系は日本全体に認められますが、沖縄に多い傾向が認められます。

以上のことから推察しますと、パプア系はアフリカを出た後、アイヌ系と同じくスンダランド(氷河期にインドネシア辺りにあった大陸)に滞在したと思われます。

その後、北に向かったのが日本のパプア系、南方に向かったのがオーストラリアのアボリジニー、東に向かったのがパプアニューギニア高地人、さらに東に向かい離島に住むようになったのがニュージーランドのマオリ族やポリネシア人、さらにはハワイ人と推察されます。

しかし、細かなハプログループ分類では、C1グループのそれぞれは、例えば日本のパプア系はC1a、ニューギニア高地人はC1bであり、少しの違いですが、一致しておりません。おそらく、スンダランドに到着したとき、C1クループにはいくつかのグループがあり、その後、それぞれに移動し、現在の姿になったと思われます。

パプア系の人気スポーツにラグビーがあります。その主役は、ニュージーランドのマオリ族ですが、ニューギニア人とかハワイ人も含め、ガッチリした体格はラグビーに合うのかもしれません。

日本人にはこうした自給自足民と肌が合う感じがします、

まず、50年前ぐらいの報告ですが、パプアニューギニア高地人と暮らした本田勝一のレポートは有名です。その記事では、日本人が仲良く違和感なく暮らした様子が描かれていました。その後、別のレポーターのテレビ報道もあり、日本人と性格の合う様子が描かれていました。

関連し、パプアニューギニアに稲作調査に行ったとき、パプアニューギニア先住民族の女性と結婚した日本人男性家族に出会いました。子供も居て仲の良い家族に見えました。

次に、南米アマゾンのジャングルに住むヤノカミ族と暮らした様子のテレビレポートがありました。西田敏行がレポーターしておりましたが、「ここにくるとほっとする」というようなことを述べていました。

また、ハワイ先住民族の言葉に優しさがあるなど親近感を感じる日本人も多いようです。

おそらく、これらの背景には、日本人には、アイヌ系の自然との共生をベースにした精神世界だけでなく、少し異なったパプア系の影響もある感じがしています。

関連し、以上のパプア系の日本移住について上トップ図に示しました。また、関連し、同じCグループのモンゴル系の移動も図に加えました。


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[ 2022/09/02 12:56 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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