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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた


継体王(Wikipediaによる)


古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた

天皇家はアイヌ系  3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた(3章の序文)

日本人は、先住民族のアイヌ系35%、南方由来のマレー系30%、朝鮮半島由来のツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。

弥生時代になると、水田稲作で豊かになったツングース系民族が王家をヤマトに開き、王陵墓と思われる200mを超える巨大古墳を3世紀後半からいくつも建造しました。しかし、巨大古墳建造は6世前半に全く無くなりました。

一方、最近のDNA研究結果、天皇家はアイヌ系であることが明らかになりました。そのルーツは継体王(在位:507-531年)まで辿れることが確実です。

おそらく、5世紀の巨大古墳建造の結果、民衆は疲弊し、その怒りは大きく、アイヌ系の継体王を中心に5世紀末期に革命が起こったと思われます。そして、古墳建造を強行したツングース系王家については王宮や文書は焼きはらわれ、王家関係者は殺され、これらのため、残った物は古墳だけだったというのが真相と思われます。

しかし、ツングース系王家は、倭国のあった北九州の一部を除く西日本のほぼ全域を支配していて強大な王家でしたので、アイヌ系の継体王が単独で戦って勝つことは不可能だったと思われます。

そこで、誰が継体王に協力したかですが、ツングース系の高句麗と対立していたマレー系百済と北九州倭国連合と思われます。

その百済ですが、当時、百済は北九州倭国と同じマレー系の民族で協力共同の関係にありました。互いに人事交流があり、百済王子が北九州倭国に派遣され、北九州倭国で倭王「武」となりました。

また、倭王「武」は、中国南朝の歴史書(宋書等)で、百済以外の朝鮮半島南部の支配を認められ、5世紀末に「征東大将軍」となったことが知られております。新羅は倭国の属国となり、倭国に朝貢する関係になりました。

一方、西日本でツングース系ヤマト王家の支配が東九州(大分、宮崎、鹿児島)まで及んできたことから推察しますと、北九州倭国が西のヤマト王家と対立していたことは、間違いないと思われます。

また、その倭王「武」が、帰国し、602年に百済で「武寧王」となり、大百済時代を創ったことが知られております。この方面は「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(ソ・チンチョル 2007)に詳しく紹介されています。(下図参照)

さらには、武寧王が、継体王に即位する前の603年にお祝いの鏡を送ったことが百済紀に書かれています。その鏡には、継体王は男弟王と呼ばれております。その後、継体王は百済から五経博士を受け入れ、文字を導入したことも知られております。

これらのことは、アイヌ系継体王とマレー系「百済・倭国」の協力関係があったことを示唆しますが、関連し、ここ第3章では、アイヌ系継体王が、マレー系の百済・北九州倭国の支援を受け、いかに権力を奪取したかについて検討します。

主な内容は以下のとおりです。

1)アイヌ系の継体王が新王朝を開始
2)北九州倭王武と百済武寧王の支援
3)古墳王家は宮崎から滅びた
4)継体王は百済から先進文化導入した

なお、上トップ図はアイヌ系の新王朝を開いた継体王の像です。継体王の出身地にある立像(Wikipedia写真)ですが、いかにもアイヌ系らしい彫りの深い髭面で、かつ、二重まぶたです。製作者のことはウエブ情報には出てきませんが、詳しく調べれば、おそらく、継体王は英雄ですので、その容貌が遺されており、それをもとに銅像が創られたのではないかと思われます。

また、下の書籍は、武寧王と継体王の関係に詳しい「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(ソ・チンチョル 2007)です。

海洋大国 大百済(書籍)


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[ 2022/10/28 13:03 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

古墳王家は関東にもあった


古代における出雲王家、ヤマト王家、関東王家の関係


古墳王家は関東にもあった

天皇家はアイヌ系 2. 古墳王家は何故滅びたのか 5)古墳王家は関東にもあった

関東地方にも多数の古墳があることが知られております。今回は、関東地方の古墳建造王家の盛衰について検討します。

まず、関東地方の弥生時代ですが、水田稲作の始まりは、神奈川県小田原市の「中里遺跡」で、時代はBC100年頃です。

一般に、水田稲作が始まると、その生産力から人口が増大することが知られております。関東の人口増加曲線で観ますと、増加が起こる時期は、近畿でBC200年頃ですが、関東でBC50年頃ですので、関東の人口増加(=水田稲作の始まり)は近畿より100年以上遅れて始まりました(下図参照)。

関東と近畿地域の古代人口変動

次に古墳の分布ですが、一般に、関東は、河川と言葉(方言)の関係から、群馬・埼玉、茨城・栃木、千葉・東京・神奈川の3地域に分類されます。

そこで、地域別に古墳建造時期と建造数を見ますと、下図のとおりです。古墳が特に多いのは群馬・埼玉です。また、建造時期は4世紀に始まり6世紀にほぼ終わりますが、5世紀と6世紀に集中しております。

数関東地方3地域の100m以上大古墳の世紀別建造

また、墳長別の古墳数は下表のとおりです。墳長が200m以上もある巨大古墳があるのは群馬・埼玉だけです。特に群馬ですが、建造古墳数と巨大古墳の場所から判断し、関東の中心地だったと見ることができます。

関東3地域の100m以上大古墳数

一方、群馬の金冠塚古墳から「金銅金冠」、茨城の三昧塚古墳から「金銅製馬形飾付冠」が出土しており、これらをまとった王が居たことは間違いないと思われます。

また、埴輪ですが、国宝級の形象埴輪2点(すべて関東)、重要文化財41点(28点は関東)、その他著名な埴輪3点(2点は関東)、合計46点がWikipedia では紹介されております。

これら合計46点のうち、関東には32点(67%)があり、特に群馬には22点(国宝2点、重要文化財18点、その他著名2点)があり、形象埴輪は群馬に集中しております。(下図参照)

埴輪46点の地域と分布

次に、古墳を建造した勢力ですが、水田稲作で発展したグループ、すなわちツングース系民族の王家と見ることができます。

弥生時代直前の関東は、中山間にアイヌ系が栗を主食に、海岸には貝を主食にしたマレー系が住んでいたと推察されます。その意味で、関東の平野部は過疎地でしたが、そこへツングース系民族が新潟方面から移住し稲作を行い、人口が増加し発展したと思われます。

彼らが豊かになると、王家を築く者が現れ、支配者になって行ったと思われます。それら古墳から出土した埴輪から見ると、そのルーツは出雲にあるという研究があります。また、古墳の近くに吉見百穴という埋葬遺跡がありますが、その埋葬様式は出雲という研究もあります。

これらの情報から総合しますと、関東の古墳王家のルーツは、出雲→新潟→関東の流れであったと思われます。

次に、関東の王家とヤマトの王家の関係ですが、どちらもルーツは出雲ですが、別々に発展したグループと思われます。その主な理由は次の3点です。

① 埴輪を見ると、関東の王家は圧倒的に豊かであり、先行のヤマト王家の影響は認められない。
② ヤマトと関東の間には両者を遮る巨大な山間部があり、山間部にはアイヌ系が多く、交流しにくい。
③ ヤマト王家は5世紀末に滅びるが、関東の王家は6世紀も続いている。

そして、関東の古墳王家の結末ですが、次のように推察されます。

まず、ヤマト(奈良・大阪)の古墳建造王家が5世紀末に滅び、6世紀からアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に代わりました。

一方、関東の古墳建造王家は、6世紀まで古墳建造を続けています。また、200mを超える太田天神山古墳近くに、ツングース系王家関連の埋葬施設の吉見百穴(埼玉県)がありますが、この施設の利用は7世紀まで続きました。

以上のことから推察しますと、関東の王家は7世紀まで続いたが、西のヤマト王家が滅び、その影響で怖くなった関東王家の人々は少しずつ逃げ、7世紀初頭には没落し、埋葬施設(吉見百穴)だけが残った。しかし、その施設利用も限界となり、7世紀末に消滅した。激しい戦いがあったかは不明です。

なお、関東のツングース系王家のことが日本書紀にないのは、日本書紀の「偉大な万世一系の天皇家」という執筆方針に合わないため、ヤマトのツングース系王家と同じように無視された。


なお、上トップ図に、古代における関東の王家と出雲王家・ヤマト王家の関係をまとめました。


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[ 2022/10/21 13:10 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

巨大古墳建造は民衆を疲弊させた


奈良・大阪の巨大古墳と建造動員数



巨大古墳建造は民衆を疲弊させた

天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか 4)巨大古墳建造は民衆を疲弊させた

今回は、ツングース系王家(古墳王家)の巨大古墳建造は、民衆を疲弊させ、民衆の怒りを限界までに広げたことについて検討します。

まず、古墳王家の古墳の形状ですが、最初の出雲王家は四隅と言われる方墳です。そして、ヤマトに移った後は前方後円墳となりました。この形状の変化は、次のようであったと思われます。

最初の出雲王家は、朝鮮半島由来ですので、そこで主流だった方墳を採用したのだと思われます。そこから移動しヤマト王家なりましたが、東海から中国まで支配する巨大な王家となりました。そこで、その巨大な王家に相応しいより巨大な古墳建造を行ったのではないかと思われます。

当時、新しい墳墓として前方後方墳が出てきました。これは墳墓(方墳)と祭壇(方形)の二つを合体したものですが、これらの建造の過程で前方後円墳の形状の方が、形が人形に似ていて格調高く大王墓の墳墓に相応しいということになったのではないかと思われます。すなわち、方墳→前方後方墳→前方後円墳になったものと思われます。

事実、前方後方墳は、前方後円墳よりも早くできていましたが、数も少なく、200m以上の巨大古墳もありません。

次に、200m以上の巨大古墳(前方後円墳)ですが、全国で38基、うち奈良・大阪に33基(約90%)あります。これらのうち6世紀前半まで建造の31基について上の表にまとめました。

関連し、これらの巨大古墳建造に使用された動員数(作業員数)の推定には、墳長486mで最大の大仙陵古墳(仁徳天皇陵)の例があります。

「現代技術と古代技術による仁徳天皇陵の建設」に詳しく紹介されていますが、その記事によれば、延べ681万人の作業員が関わり、作業員数が多いのは、盛り土の運搬です。ここから創造しますと、おそらく、盛り土量と作業員数は比例する関係にあると推定されます。

そこで、その他の古墳の動員数ですが、墳長については分かっていますので、大仙陵古墳を例に、墳長と動員数の関係を推定してみました。その計算法は、動員数=a×体積(墳長×墳長×墳長)、すなわち、681万人=a×486m×486m×486mから、a=0.059となりました。

この数値をもとに計算されたのが下図の作業員数と墳長の関係です。墳長100mは10万人、200mは50万人、300mは160万人、400mは380万人、500mは740万人で、墳長200mから動員数が50万人で大規模工事となる感じです。その意味で、200m以上の古墳は巨大古墳で、ツングース系王家の王墓と見ることができます。

墳長と動員数の関係

この図をもとに、それぞれの古墳の動員員数を上トップの表に示しました。

因みに最初の箸墓古墳ですが、墳長276m、動員数125万人です。箸墓古墳研究者の甘 粕 健(1985)によれば、動員数は延べ100万人と推定していますので、ここでの125万人という数値はほぼ妥当な数字と思われます。

次に、半世紀別の巨大古墳建造の動員数を下図に示しました。5C前半は、世界最大の古墳と言われる大仙陵古墳(仁徳天皇陵)が建造された時期ですが、動員数は頂点に達し、合計2500万人です。これを50年(半世紀)で割ると1年辺り延べ50万人となります。

奈良・大阪の巨大古墳建造動員数

単純化するため、作業に当たる年日数を1人当たり50日とすると、1年辺り延べ50万人動員は、実際は1万人(50万人=1万人×50日)が動員されることになります。

当時5世紀の人口については、前々回の人口曲線から推定しますと、近畿地域で80万人程度ですので、ここから1万人の動員というのは不可能な人数ではありません。

一方、これはツングース系王家の墳墓です。現在のY染色体ハプログループ分類による結果から推定しますと、近畿のツングース系は約30%です。これらの人々は支配者側で、これらの人々以外から動員されたと見ますと、約60万人が対象者となります。

また、動員される者は男性とすると、60万人の半分の30万人、そして、このうち古墳建造に参加できる壮健な男性は約20万人となります。この20万人から1万人、すなわち20人に1人の動員となりますが、毎年のことですので、それぞれ20年に1回は動員されることにすると、ほぼ全員が生涯に1回は動員されることになります。

この動員がどのような労働条件で行われたのが問題となります。当時の食料事情や宿泊事情については不明ですが、古墳建造のための宿泊施設遺跡が見つかっていないこと、その後に革命が起きたこと等の状況を見ますと、厳しい労働状況だったのではないかと推察されます。すなわち、支給されたのは、粗末な食事、粗末な住環境、徒歩による古墳建造地派遣で、奴隷労働に近い扱いだったと推察せざるを得ません。

この5世紀前半の時期は、ツングース系王家が馬と構造船を充実させた時期と前回紹介しましたが、まさに、馬と構造船は巨大古墳建造を可能にした原動力になっていたと思われます。関連し、地域外からの動員もあったことが推察されますが、これらの人々がどのような状況にあったのかは不明です。

さらには、これら大規模古墳建造の他に中小規模な古墳(墳長200m未満)の建造も多数ありました。これらの結果、古墳建造は過酷な事業で、民衆の不満は大きく、次の半世紀(5世紀後半)に古墳建造が小規模化し少なくなったのは、そのためと思われます。因みに、古墳建造動員数は、5世紀前は2500万人ですが、5世紀後は800万人で、約3分の1となっています。

また、5世紀後半末期になると、ウワナベ古墳(奈良)の例ですが、勢力が弱くなり、王家が大阪から元のヤマトに戻った感じを受けます。

このヤマトに戻った理由として、アイヌ系の継体王(在位:507-531年)が5世紀後半に大阪北部を支配するようになったことと関係があると思われます。因みに、継体王は、大阪北部の樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)に新王宮を6世紀初期に築いています。おそらく継体王は、5世紀末期から大阪北部を支配し、一方、ツングース系王家は弱体化し、5世紀末期に大阪の地も守れなくなったのが真相と思われます。

そして、6世紀前となると、200mを超える巨大古墳建造はなくなりました。

なお、当時の継体王を含めたアイヌ系民族の状況ですが、アイヌ系の多い内陸部の岐阜や長野等で弥生時代より古墳時代遺跡数が多くなっていることから想像しますと、中山間地に居たアイヌ系は畑作のほか、適地は少ないが稲作を始め、人口が増え、ツングース系とマレー系は、近畿地域では、ほぼ同数の30%程度になっていたと思われます。

一方、マレー系ですが、現在のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)と同じ割合があったとすると、海岸部を拠点に稲作を行い、かつ、縄文時代由来の漁業や交易をし、全体の30%程度あったと推察されます。

まとめますと、過酷極まる巨大古墳建造の結果、アイヌ系とマレー系は連合し、ツングース系王家に抵抗し、革命を起こしたと思われます。


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[ 2022/10/14 13:22 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)

古墳王家は馬と船で拡大した


河内王家朝の支配地


古墳王家は馬と船で拡大した

天皇家はアイヌ系 2.古墳王家は何故滅びたのか 3)古墳王家は馬と船で拡大した

前回、朝鮮半島由来ツングース系民族は、鉄器を持ち、水田を開発し、豊かになり、人口が増大し、その中からツングース系王家が生まれ、その王家は出雲からヤマトに移動したたことを紹介しました。

その後、王家は巨大化し、中心地(都)を内陸部のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移しました。関連し、今回は、王家を海岸部に移すきっかけとなった要因としての馬と構造船の発達と利用について検討します。

まず、馬ですが、日本では絶滅してしまったことが分かっていますので、当時の馬は朝鮮半島由来となります。

そして、巨大古墳が建造された河内(大阪)ですが、5世紀に馬の飼育場があったことが遺跡調査から分かっています。また、埴輪には馬形のものがありますが、これらが出てくるのは5世紀以降の古墳です。これらのことから推定しますと、馬の導入は4世紀、本格的使用は5世紀と推定されます。

この結果、ツングース系王家は、馬を使い、ヤマト周辺を移動し、古墳建造に必要な人員を確保したと思われます。当時、人々は馬を見たことがなく、かつ、乗馬した兵士は大きくたくましく見えたことと思われます。

因みにスペイン人のインカ帝国支配ですが、インカ帝国には馬が居なかったため、馬にまたがったスペイン人は大きく恐ろしく見えたため、インカの支配が少数でもできたことが知られています。日本の古代も同じく、馬は、戦いだけでなく人民支配の重要なひとつになっていたと思われます。

次に、構造船ですが、これなしに朝鮮半島からの馬の導入も不可能ですので、導入時期は同じく4世紀と推定されます。埴輪研究によれば、馬を乗せることのできる船形埴輪(準構造船)が出土するのは5世紀以降です。これらのことから総合しますと、準構造船利用は4世紀に始まり、5世紀に舟形埴輪ができたと理解されます。

そしてこの構造船が活躍したのは、内陸部の奈良(ヤマト)から海岸部の河内に中心が移動した時期と思われます。すなわち、5世紀になると、ツングース系王家は、馬と構造船を使い瀬戸内海を自由に航行し、近畿、中国、東九州、四国を支配することができるようになったのではないかと見ることができます。

その象徴的遺跡は、世界最大の大仙陵古墳、次に大きい応神天応陵と思われます。これらは、ツングース系王家の中心地(大阪)に建造され、その時期は5世紀前半ですが、まさに馬と構造船が活躍した時期と場所が一致します。

また、前方後円墳の建造はツングース系王家の象徴と思われますが、関連し、5世紀前半には吉備に300m以上の造山古墳、宮崎に西都原古墳群が建造されています。これらは、まさに、ツングース系王家の西支配の象徴的古墳と思われます。さらには、東海地域、東山地域、北陸地域にもツングース系王家象徴の古墳(前方後円墳)は建造され、関東東北を除くこれらの地域にも支配は及んでいたと推察されます。

一方、ツングース系王家がヤマトから河内(大阪)へ中心地が変わった件については王朝交代説があります。新河内王朝説が、その代表と思われますが、ヤマト王朝を滅ぼされ新しい王朝が作られたという物的証拠はなく、この説は創造の域は出ていません。

まとめますと、古代の中心地がヤマトから大阪に移動した背景については、馬の導入や構造船の発達により支配地が拡大し、海岸部が支配の中心地となり、その結果、中心地を内陸のヤマトから海岸部の河内(大阪)に移したと見るのが妥当と思われます。

関連し、下の写真は、著者がフイリピン・ミンダナオで働いたときにいただいた模型です。ミンダナオの古代の構造船ですが、解説によれば、これは遣唐使船のようです。当時の日本の構造船もこのようなものであったことが当時の埴輪から想像されます。


古代の構造船

また、関連し、上トップに河内に移ったツングース系王家の支配地を示しました。


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[ 2022/10/07 10:56 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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