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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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継体王は百済から先進文化を導入した


蘇我家のルーツは百済


継体王は百済から先進文化を導入した

天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4)継体王は百済から先進文化導入

前前回、百済の武寧王から王位就任のお祝いの鏡が503年に届けられたこと、しかし、継体王(在位:507-531年)が王位に就いたのは507年ことであったことを紹介しました。

これの就任の遅れは新王家開始のための文官が居なかったためと判断されますが、今回は、これら文官を百済から集めたことについて検討します。

まず、ヤマトのツングース系王家は、北九州を除く西日本のほとんどを支配し、巨大な古墳をいくつも建造しました。このため、この巨大王家を支える文官が居たことは間違いありません。

しかし、王家の記録が何も残っていないことから想像しますと、巨大古墳建造を強行したツングース系王家に対する民衆の怒りは大きく、王家の武人だけでなく文官も殺され、王宮や文書は焼き払われたのが真相と思われます。

一方、継体王を支援した部族はアイヌ系とマレー系と判断されますが、彼らは武人や交易人としては使えるが、文字は知らず、王家の財政等を管理できるものは居ませんでした。

このため、新王家開始に当たっては、一から準備しなくてはならなかったのが真相と思われます。事実、継体王の王宮跡は樟葉宮(くすはのみや、大阪府枚方市)、陵墓は今城塚とほぼ確定しておりますが、その調査によれば、大きな館はなく、小さな王家だったことが想像されます。(下図参照:「継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮」(西川寿勝氏ら2008)の図を著者編集)

継体王の陵墓と王宮場所(「継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮」(西川寿勝氏ら2008)の図を著者編集)

幸い、百済は朝鮮半島で中国南朝からの仏教導入を初め、最も進んでいた国家であり、かつ継体王支援国家でしたので、継体王が文官派遣を依頼したのは当然のことと思われます。

継体王は、百済から五経博士を招き、日本で初めて文字を導入した王として知られておりますが、これは、以上の背景があったためと思われます。

そして、このとき百済から派遣された中心人物が蘇我氏と思われます。その理由は次のとおりです。

まず、継体王を支えた豪族として、物部氏や大友氏が知られております。彼らは軍事面を担当し、大連(おおむらじ)という役職をえています。彼らは、ツングース系王家との戦いで軍部の面で戦果をあげたのではないでしょうか。

一方、蘇我家は財務を担当し、唯一の大臣職と言われ、破格の待遇です。当然のことながら、財務には算術的能力や文書能力が必要です。そのような新王家を支える文官人材は、当然のことながらアイヌ系豪族には居ませんでした。

関連し、百済の住民は南方由来マレー系で中国南朝と関わりが深いことが知られています。そして、漢字の読み方には南方読みと北方読みがありますが、このとき、使われたのが南方読みの漢字です。日本には、その南方由来の読み方が伝わったと思われます。例えば、一、二、三、四、五は、南方読み(例えば福建語)でイー、ジー、サン、シ、ゴと読みます。一方、北方読みではイー、リャン、サン、スー、ウと読みます。
  
以上の経過から、蘇我家は、五経博士に先んじて日本に来て、始まったばかりのアイヌ系王朝の財務大臣という職を得て、国の政治に関わったものと思われます。アイヌ系の継体王朝は始まったばかりで、その財務大臣に異を唱えるアイヌ系豪族はなく、その地位を生かして勢力を伸ばしたと判断されます。

例えば、継体王時代は蘇我高麗(こま)の時代で、その2代目の稲目は二人の娘を妃に出した豪族です。おそらく、蘇我氏は百済系美男美女の家系で、娘も美女だったので、そういうことができたのだと思われます。

関連し、その時代、百済王として部寧王が知られております。その容貌については前前回に紹介しましたが、凛々しいハンサムな武人の顔立ちです。おそらく純系のマレー系ではなく、中国人との混血と推察されます。

蘇我高麗が部寧王のようなハンサムであったか確定できませんが、蘇我高麗が、百済出身で、この像のような顔立ちだとすると、その2代目の稲目もハンサム、その娘は百済系美人として天皇妃となった可能性があります。

また、蘇我高麗(そが・こま)という名前もマレー系百済出身の感じがします。例えば、「ソガ」に近い言葉に「サガ」(美しいもの、英雄)があります。また名前の「コマ」は後の朝鮮半島の高麗国と同じです。

蘇我家は、高麗→稲目→馬子→蝦夷→入鹿(滅亡)となりますが、蝦夷(えみし)の名前をどう解釈するかがポイントとなります。蘇我家は馬子・蝦夷の時代が絶頂期と言われますが、おそらく、蘇我氏は、もともとは百済出身であるが、多数派のアイヌ系(蝦夷系)の名前を持つことによって、より支配を広げようとしたのではないかと推察されます。

関連し、継体王を支えた蘇我氏のルーツについて上トップ図に紹介しました。


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[ 2022/11/25 11:06 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)

古墳王家は宮崎から滅びた


ツングース系王家は宮崎から滅びた


古墳王家は宮崎から滅びた

天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 3)古墳王家は宮崎から滅びた

朝鮮半島由来ツングース系王家(古墳王家)は、初めに出雲王家を3世紀前期に創り、次いで、ヤマト(奈良)に移動し、近畿地域を支配する大王家に発展しました。その象徴的古墳は3世紀末に建造された墳長276mの箸墓古墳でした。

さらに、王家は支配地を広げ、マレー系の支配地域であった吉備(岡山)を手に入れ、そこにツングース系王家象徴の357mの巨大古墳「造山古墳」を5世紀に建造しました。

さらに、ツングース系王家は、馬と構造船を手に入れ、支配地を東九州まで広げました。その西南端は宮崎・鹿児島と思われます。そして、そこに、100m以上の前方後円墳をいくつか建造しましたが、その象徴的古墳は宮崎の西都原古墳群と思われます。

それらの古墳からは、吉備産と思われる円筒土器が大量に発見さていますので、吉備と宮崎は、同じツングース系の支配地だったと思われます。(下表参照)

東九州における墳長100m以上の前方後円墳

そして、それら前方後円墳の分布から見て、ツングース系王家は、ヤマト(奈良・大阪)、吉備、宮崎に拠点があったと思われますが、最初に滅びたのが宮崎と判断されます。

その宮崎が最初に滅びた理由は次の5点です。

1. 宮崎の王家はあまり大きくなかった。

 ツングース系王家象徴の前方後円墳の分布ですが、東九州で見ますと、100m以上の大古墳は、大分2基、宮崎6基、鹿児島2基で、宮崎で最も多く、かつ、サイズも宮崎が大きい。しかし、ヤマトに見られるような200m以上のものはなく、それほど大きな王家ではなかったと思われます(上表参照)。

2. 北九州倭国の領域は福岡、佐賀、熊本であり、宮崎は倭国の隣にあり、攻めやすい地にあった。

 その熊本の山間部を東に抜けると、そこは宮崎であり、宮崎は攻めやすい地にあったと思われます。
 
3. 宮崎や周辺の山間部には縄文時代由来のアイヌ系が多かった。

 縄文時代遺跡は南九州(熊本、宮崎、鹿児島)に多く、縄文時代からアイヌ系が多く居た地域でした。その居住地は、中山間部ですが、一方、稲作を導入したツングース系は稲作適地の平野部を支配していたと推察されます。そして、アイヌ系は古墳建造など使役され、ツングース系王家と対立していたと思われます。

4. 縄文時代から海洋交易を担っていた隼人という集団が居て、北九州倭国側に身方し、この戦いに参戦した。 

 関連し、隼人の存在ですが、ブログ「鬼と仏の国東半島めぐり」の記事「養老年という時代-隼人討伐その後」によれば、奈良の大和朝廷が720年に大隅(鹿児島)・日向(宮崎)の隼人討伐を大分の「宇佐宮」に命じたとあります。この記事から推察しますと、宮崎・鹿児島でツングース系が滅びた後、宮崎・鹿児島を支配していたのは隼人になります。おそらく、隼人は、縄文時代から海岸に居住し海洋交易をしていたマレー系集団と思われますが、アイヌ系と同じく古墳建造など使役され、反ツングース系であったと思われます。そして、ツングース系宮崎を滅ぼした後、宮崎と鹿児島を支配していたのではないかと思われます。 

 なお、関連し、鹿児島には熊襲が居て中国南部がルーツという情報もありますが、一方、マレー系隼人も中国南部がルーツです。熊襲と隼人が同一なのか、これから検討が待たれます。

5. その他、天孫降臨の地

 以上の結果、北九州倭国、南九州の中山間に居たアイヌ系、さらには南九州海岸部に居た隼人が連合してツングース系王家の宮崎を滅ぼしたと想像されます。

 さらに、その他になりますが、宮崎が先に滅びた理由として、日本書紀の記述によれば、宮崎の高千穂は神武天皇降臨の地となっています。また、神話の時代、山彦は海彦と戦い、勝利したとなっています。山彦は神武天皇の祖父の関係にあります。これらの記述から想像しますと、アイヌ系王家の最初の勝利の地が宮崎であり、ここから王家は東に進み、ヤマトのツングース系王家を滅ぼし、現王家を創った、ということが示唆されます。

関連し、これらの関係のまとめを上トップ図に示しました。


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[ 2022/11/18 08:00 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した


継体王倭国王武、武寧王の関係


北九州倭国王と百済武寧王が継体王を支援した

天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 2)北九州倭国王と百済武寧王の継体王支援

前回は、継体王が百済と北九州倭国の支援を得て、ツングース系王家を滅ぼしたことを検討しました。今回は、百済と北九州倭国が継体王を支援したことについてさらに検討します。

まず、百済ですが、建国の経過は不明ですが、首都があった漢城時代(475年まで)、熊津時代(475-538年)、泗沘時代(538年から)の三時代に大きく分類されます。

現在のソウルにあった漢城が高句麗との戦いで落城し、その後、百済は山間部にある熊津に再建されました。熊津時代の始まりですが、502年に武寧王が即位し、高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復しました。

このとき百済を支援していたのが北九州倭国です。高句麗から国を守るため百済は北九州倭国に支援を要請し、その支援の関係で百済王子の1人(後の武寧王)は、北九州倭国の交換捕虜となっていました。

捕虜となっていた百済王子は、北九州倭国で抜擢され倭王武と名乗り、中国南朝から「征東大将軍」の称号を得て、百済を除く朝鮮半島南部を支配する強大な国家にしました。このとき、新羅は倭国の属国となり、北九州倭国に朝貢するようになりました。

倭王武は、万世一系の偉大な天皇家という執筆方針と合わないため日本書紀では無視されたと思われます。しかし、偉大な倭王武を示す歴史的遺物は中国南朝の資料のほか、日本にもいくつかあります。

まず、一つは、海に面した倭国の都の太宰府建造です。その都の建造時期は5世紀で、日本で初めての条里制に基づいて建造された都で仏教寺院も建造されていました。5世紀は倭王武の時代で、倭国全盛時代であり、そこに都があったこととは歴史的事実とも合致します。

また、北九州の古墳には、ヤマトの古墳と異なり、装飾古墳が多いことが知られております。この装飾古墳のルーツは中国南朝にありますので、中国南朝と北九州倭国の関係があったことは確実です。

また、埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文があります。鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)、そこには「天下の倭国の大王が居た」と書いてあります。また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳からも同内容の鉄剣が出土しております。

この時代、日本には、北九州倭王武、ツングース系ヤマト王家の王、関東王家の三王が居ましたが、ヤマトの王は継体王(在位:507-531年)に攻められ滅亡寸前、関東王家はまだ小国です。すなわち、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、中国の南朝から「征東大将軍」と認められた倭王武以外には無いと判断されます。

一方、北九州倭国には隣国の敵として、ヤマトにツングース系王家があり、その王家は、岡山(吉備)を支配し、さらには東九州の大分・宮崎・熊本まで勢力を拡大していました。そこで、倭王「武」は、同じツングース系王家と関係のある宮崎をまず滅ぼしたと思われます。この方面は後に詳しく紹介します。

そして、偉大な業績を残した倭王武は、もともとは百済の王子であったことから、百済に戻り502年に王位に就き、武寧王と名乗りました。そして、503年に日本の継体王に王位就任祝いの鏡を贈りましたが、その鏡には、継体王は武寧王の男弟王(弟)と記されていて、継体王が百済の支援を受けていたことは確実です。

一方、その北九州倭国の始まりですが、その建国経過は不明です。高句麗王「広開土王碑文」によれば、399年に倭国が海を渡り、百済を臣民としたとありますが、その頃から倭国があったことになります。

そして、倭王武が百済に帰って武寧王となった後、倭国王(君)となったのは筑紫君(つくしのきみ)と呼ばれた磐井王でした。筑紫国風土記によれば、磐井王は筑紫の君(王)と呼ばれ、527年に継体王と戦った(磐井の乱)とき大分の方に逃げたとありますから、磐井王時代、筑紫国の領土は大分を含む北九州全域になっていと思われます。

また、百済と北九州の地域的特徴ですが、中国南部から北上してきた稲作民族マレー系Bの移住した地域で、稲作関係の弥生時代遺跡が多数ある地域です。その意味で、北九州倭国と百済はマレー系民族の国で、もともと言葉が通じ、兄弟関係になります。

関連し、百済は日本語読みで「くだら」と読みますが、「Kudara」はマレー語で兄弟という意味です。おそらく、同じマレー系の仲間ですので百済のことを北九州の人々が「くだら」と呼んだのが、その読みのルーツと思われます。

そこで、まとめますと、百済・北九州倭国と継体王の関係ですが、次のような関係になります。

1. 百済・北九州倭国は中国南部(越国)から渡来してきたマレー系民族の国で、北のツングース系の高句麗と戦ってきた。また、日本では、東方にツングース系のヤマト王家があり、その勢力は東九州まで迫ってきていた。

2. 一方、継体王はアイヌ系であり、アイヌ系はツングース系王家の巨大古墳建造に動員され、怒りに満ちていた。

3. これらの背景から、北九州倭国の倭王武は、継体王と連携し、まず、東九州とくに宮崎のツングース系王家を攻め、続いて、東に向かい、吉備の古墳王家を攻めた。

4. 継体王が、大阪・奈良のツングース系王家を滅ぼすと、百済の王になった武寧王がお祝いの鏡を603年に贈った。

関連し、これらの経過を上トップ図に示しました。

また、継体王を支援した武寧王(もと倭王武)の姿は下図のとおりです。

武寧王像(「KOREA駐在おやじ」からの引用)

なお、以上の百済・北九州倭国と継体王の関係は、日本書紀では無視されています。理由は簡単で、現天皇家は継体王(在位:507-531年)から始まりますが、一方、それ以前からあった北九州倭国については、天皇家は万世一系という執筆方針とは合わないため、無視されたと思われます。


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[ 2022/11/11 09:17 ] 未分類 | TB(-) | CM(2)

アイヌ系の継体王が新王朝を開始


ツングース系王家の滅亡経過(5世紀)



アイヌ系の継体王が新王朝を開始

天皇家はアイヌ系 3.古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 1)アイヌ系の継体王が新王朝を開始

日本の古代史では、継体王は第25代天皇(在位:507-531年)と知られております。そして、その系譜は応神天皇の傍系の末裔(福井出身)であるとされています。

しかし、冒頭(はじめに)で示しましたように、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、継体王はアイヌ系であることが明らかになりました。一方、応神天皇は朝鮮半島由来のツングース系であることは確実です。

したがって、継体王が応神天皇の末裔ということは日本書紀の創作(虚構)になります。また、継体王以前の天皇記録は実在したツングース系王家の王か創作になります。なぜ、このような創作を行ったかについては後の「第4章.日本書紀は創作」で詳しく検討します。

次に、アイヌ系継体王が、どのように新王朝を開始したかですが、新情報を基に検討すると、次のようなステップだったと思われます。

1. ツングース系王家が過度な巨大古墳建造を行い、民衆を疲弊させ、アイヌ系等の民衆の怒りが高まった。

2. 継体王は福井のアイヌ系豪族であり、おそらく、北陸や近辺のアイヌ系をまとめ、かつ、良港のある福井の地を利用し、百済や北九州倭国と交易していた。

3. 一方、北九州には中国南部由来の弥生人系マレー系Bの築いた倭国があり、5世紀には朝鮮半島南部をも支配する王「征東大将軍」の称号を中国南朝から得た倭国王武(倭王武)が居て強国になっていた。また、同時に、倭国の隣の東九州(大分、宮崎、熊本)では、ヤマトのツングース系王家が支配するようになり、北九州倭国はヤマト王家と対立していた。

4. また、朝鮮半島には、同じくマレー系Bの築いた百済が朝鮮半島南西部にあり、倭国と共同して北部の高句麗と対決していた。

5. 以上の背景から、ヤマトのツングース系王家打倒のため、アイヌ系継体王とマレー系北九州倭国(+百済)の協力関係ができあがった。

6. ヤマト(奈良・大阪)のツングース系王家の西日本の重要拠点は、その象徴としての前方後円墳が多数建造されていた宮崎と吉備(岡山)の2カ所と判断されるが、初めの戦いは宮崎で起こった。九州南部の中山間にはアイヌ系が多く居て、これらアイヌ系と共同して、マレー系倭国は熊本(高千穂)方面から宮崎を攻めたと思われる。

7. さらには、九州南部海岸部には、縄文時代から居たマレー系Aの隼人も宮崎の戦いに参加し、ツングース系宮崎は滅んだ。(隼人について詳しくは、「(3節)古墳王家は宮崎から滅びた」で報告します。)

8. ツングース系王家の宮崎が滅びた後、次の戦いは吉備に移った。吉備も巨大古墳建造で民衆の怒りをかい弱っていたが、北九州倭国は西側から、アイヌ系は北の島根と東の兵庫から攻め、吉備も滅んだ。

9. 最後はヤマト(大阪・奈良)の攻防になった。継体王は大阪北部の西宮に拠点(後の王宮)を築き、大阪の河内王家と対峙したが、これを見て大阪南部の河内にあったツングース系王家は逃げ、古巣のヤマト(奈良)に集結した。

10. ツングース系王家は、ヤマトで再起を期したが、アイヌ系部族等連合に四方から攻められ、5世紀末期に滅び去った。このヤマトの戦いの様子は日本書紀の神武東征最後のヤマトの戦いに似ていると思われる。

11. ツングース系王家を滅ぼした継体王はアイヌ系王家を507年に開始した。なお、503年に百済の武寧王から王位即位のお祝いの鏡が届いているところから見ると、ヤマト王家滅亡直後には王家を開始できなかったと判断される。おそらく、新王家をまとめる文官がアイヌ系等の豪族にはいなかったためと思われる。

12. そこで、継体王は、百済の武寧王に依頼し、文官を百済から迎えることによって新王家を開始できた。おそらく、この時の文官は、その後権力者になった蘇我家と思われる。

関連し、ツングース系王家滅亡(5世紀)の様子を上トップ図に示しました。



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[ 2022/11/04 09:11 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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