日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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天皇家はアイヌ系についてのDNA結果は知られていない [2022/12/29]
白村江の戦いの内容は虚構 [2022/12/23]
邪馬台国と北九州倭国の実在が書かれていない [2022/12/16]
朝鮮半島由来王家の実在が書かれていない [2022/12/09]
日本書紀は万世一系の創作だった [2022/12/02]
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天皇家はアイヌ系についてのDNA結果は知られていない
「天皇家はアイヌ系」についてのDNA結果は知られていない
(ごあいさつ)
拙ブログ訪問、ありがとうございます。速いもので1年が過ぎようとしています。ついては年末の挨拶をさせていただきます。
今年は「天皇家はアイヌ系」について主に検討してきました。
これらの検討では、最近のDNA研究の結果、天皇家は継体王(在位:507-531年)に始まるアイヌ系であること、この発見は古代史の通説を大きく変える発見であることについて紹介してきました。
このDNA結果ですが、古代史だけでなく現代社会に対する影響も大きいと思われます。
まず、古代史関係ですが、日本書紀を基にした「天皇家は万世一系」については完璧に否定されたことになります。小生の町の市立図書館の古代史関係の書籍の内容を見ますと、大半はこうした通説を基にした書籍ですので、これらの書籍は歴史的事実と異なる内容になってしまった問題に直面します。
また、現代社会についても影響が大きい感じがします。例えば、いろいろな知識人が政治や世界の事件について記事やコメントを書き込んでいる「
阿修羅掲示板
」というサイトがありますが、天皇家の話題になりますと、未だに「天皇家は朝鮮半島由来」というコメントが散見されます。
そして、さらには、朝鮮半島由来の天皇や朝鮮人に日本は未だに支配されているなんて言葉も聞かれます。すなわち、「
巨大古墳を多数建造した朝鮮半島由来ツングース系王家がアイヌ系王家に変わったこと
」が知られていません。
ここに、新聞・テレビは重要なことについて故意に報道しない場合があるというマスコミ問題も見ることができます。すなわち、DNA研究結果について、大学教授等の古代史の専門家は知っていても発表できない、あるいは報じてもらえないという大きな問題が背景にある感じです。
そこで、拙ブログですが、微力ながら、来年も本問題をさらに検討していく予定です。
来年も応援とご厚情をお願いします。
なお、上と下の写真は我が菜園のアケビとキウイの果樹です。
アケビは甘くジューシイ、農作業で乾いた体に潤いを与えてくれました。また、キウイはビタミンC豊富、これを毎日冬場に食べていますが、カゼをひかない体質にしている感じがします(笑)。
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[ 2022/12/29 08:38 ]
ごあいさつ
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白村江の戦いの内容は虚構
白村江の戦いの内容は虚構
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作、3)白村江の戦いの内容は虚構
継体王(在位:507-531年)以前の日本書紀の記述は創作であったことを検討してきました。しかし、継体王以後の歴史的事件でも、それが認められます。それは百済滅亡経過にある白村江の戦いです。
日本古代の最大の対外関係事件は、663年の白村江の戦いと言われますが、これに関する日本書紀の内容は明らかに創作です。
すなわち、事実は北九州倭国と唐軍の戦いであったが、これを認めると北九州倭国があったことが明らかになり、天皇家は万世一系でなくなってしまう問題があり、事実は書けなかったことと思われます。
そこで、白村江の戦いの真相を探りますと次のとおりです。
まず、ヤマト政権が白村江の戦いに参加しなかったことは遣唐使の記録からも分かります。
白村江の戦いがあった時、ヤマト政権は、遣唐使を派遣し、唐の先進文化を積極的に導入しようとしていました。すなわち、ヤマト政権は唐と友好関係にあり、唐と戦う理由はありませんでした。
「遣唐使全航海」(上田雄著 2006)を参考に、白村江の戦いでヤマト政権が本当に戦ったのかについて検討しますと次のとおりです。
第4回遣唐使(659~661): 人数は240人ぐらい、船2隻に分乗し出発したが、東シナ海で逆風を受け、1隻は漂着した後、南海の島で島民の攻撃に合い、5人だけが逃げることができた。一方、残りの1隻は、都(長安)に659年に無事着いた。
当時、唐は660年に百済への総攻撃を予定していたため、百済の隣国である日本に情報が洩れることを恐れ、使節一行は唐の都に幽閉され、百済征討が終わった翌年(660年)に開放され、帰国した。
第5回遣唐使(665~667): 唐が百済を攻め滅ぼした後の663年、唐は百済に占領軍を置き、664年に唐の鎮将は部下を戦後処理のため百済から北九州に派遣した。さらに665年に唐の使節254人が北九州に再来した。そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣そして、これら唐の使節を丁寧にもてなし帰国させる任になったのが第5回遣唐使であった。
(書籍解説終了)
これら遣唐使の内容から見ますと、白村江の戦いで日本側が唐と戦ったことは、まったく触れられていません。すなわち、唐と戦ったのは北九州の倭国軍であり、日本書紀にある倭国軍(日本軍)で無かったと判断されます。
また、665年に唐の使節254人が来ましたが、場所は北九州です。すなわち、彼らが来た理由は実際に戦った北九州倭国の戦後処理であったと推察されます。
関連し、当時倭国は「阿毎王権」でしたが、白村江の戦いの後、北九州倭国政権は中国の歴史書から消えました。また、倭国王だった「倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)」が唐軍に捕らえられたことも知られております。
すなわち、白村江の戦いで唐軍と戦ったのは北九州の倭国となります。
次に、白村江の戦いにおける海戦の真相です。
まず、日本書紀をベースにしたWikipedia(白村江の戦い)によれば次のとおりです。
軍事力
唐・新羅連合軍
総兵力は不明であるが、森公章は総数不明として、660年の百済討伐の時の唐軍13万、新羅5万の兵力と相当するものだったと推定している[1]。また唐軍は百済の役の際よりも増強したともされる[4]。当時の唐は四方で諸民族を征服しており、その勢力圏は広かった。この時参加した唐の水軍も、その主力は靺鞨で構成されていたという。
水軍
水軍7,000名、170余隻の水軍。指揮官は劉仁軌、杜爽、元百済太子の扶余隆。
陸軍
不明。陸軍指揮官は孫仁師、劉仁願、新羅王の金法敏(文武王)。
倭国軍
第一派:1万余人。船舶170余隻。指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津。
第二派:2万7千人。軍主力。指揮官は上毛野君稚子、巨勢神前臣譯語、阿倍比羅夫(阿倍引田比羅夫)。
第三派:1万余人。指揮官は廬原君臣(いおはらのきみおみ)(廬原国造の子孫。現静岡県静岡市清水区を本拠とした)。
(引用終了)
また、このときの唐軍の指揮官「劉仁軌」ですが、Wikipediaによれば次のとおりです。
龍朔3年(663年)9月、百済残党を支援する倭(日本)の水軍を白村江で迎撃し、400余隻の軍船を焼き払って大勝する(白村江の戦い)。さらに百済故地の諸城を平定し、屯田を営み庶民を安心させたという。
(引用終了)
また、「白村江の戦いの“信じがたい真実”…なぜ倭国軍全滅の戦争を起こしたのか?」(ブログ記事)によれば次のとおりです。
奈良時代の歴史書『日本書紀』によると、大伴部博麻(おおともべのはかま)という筑紫国の農民兵が690年に帰国した。あるじの豪族4人とともに唐軍の捕虜になったが、自分の身を売って奴隷になり、その金であるじを先に帰国させる。本人が帰国を果たしたのは白村江の戦いから27年も後だった。
(引用終了)
これらから白村江の戦いの真相を探ると次のとおりです。
1. 唐軍は7000余人、船舶170余隻また、船の大きさは、単純計算で40人乗り、大~中型船という感じです。
2. 一方、日本書紀の記述ですが、日本軍は1万余人。船舶は唐軍と同じく170余隻ですが、唐軍と同じ船数となっているのは作為的と思われます。また、船の大きさですが、単純計算で60人乗り(1万人/170隻)で唐軍よりも大きな船です。そこで、そのような多数の大きな船をどのように作ることができたのか、疑問が残ります。当時は、そのようなサイズに遣唐使船がありますが、数隻準備するだけで精いっぱいだった時代、170隻はあり得ません。
3. また、唐軍指揮官「劉仁軌」の記事によれば、「400余隻の軍船を焼き払って大勝」とあります。さらに関連記事を見ますと倭国軍は小舟のため唐軍の船に挟まれ苦戦したとあり、日本書紀記述のような大きな船は出てきません。
4. また、日本書紀の別のところでは「北九州筑紫国の農民兵が690年に帰国した」とあります。これは、白村江の戦いの主役は北九州倭国の兵士だったことを示唆しております。
5. さらには、捕虜の帰還に関し、Wikipediaによれば、沙門道久(ほうしどうく)・筑紫君薩野馬(つくしのきみさちやま)・韓嶋勝裟婆(からしまのすぐりさば)・布師首磐(ぬのしのおびといわ)の名前があります。彼らは、北九州倭国の高僧、王、豪族です。
6. 以上のことをまとめますと、白村江の戦いは唐軍(中型船)と北九州倭国(小型船)との戦いであったと見ると矛盾がなくなります。
これらをまとめますと、白村江の海戦いで唐軍と戦ったのは北九州倭国であったことになります。
次に、白村江の戦いの和平会議(665年)で決まったことです。
まず、白村江の戦いの経過は次のとおりです。
659年: 日本(ヤマト政権)第4回遣唐使派遣(661年帰国)。
660年: 唐・新羅連合軍に百済が敗れ、残党が北九州倭国と日本に復活のための支援を要請する。
663年: 北九州倭国軍が支援に向かい、唐・新羅連合と対戦し、白村江の戦いで大敗し、陸上の戦いでは指揮官(倭国王)等多数が捕虜となる。
665年: 唐の劉徳高が戦後処理の使節として北九州に来て、3ヶ月後に劉徳高は帰国した。この唐使を送るため、日本は第5回遣唐使(665~667)を派遣した。
そこで、その経過を詳しく検討しますと、不思議なことに665年の戦後処理の内容が日本書紀では明らかになっていません。
一般に、敗戦国は戦勝国に何らかのものを提供しなければなりません。しかし、日本(大和政権)は何も失っていません。
また、捕虜になったのは倭国王初め北九州倭国関係者ばかりです。日本書紀に、「指揮官は安曇比羅夫、狭井檳榔、朴市秦造田来津」等、大和の指揮官の名前が入っていますが捕虜になった者は居ません。
そこで、前後関係から想像しますと、665年の戦後処理では、次のようになったと推察されます。
1. 今回の戦争は北九州倭国が起こしたもので、日本(ヤマト政権)は関係がない。
2. 百済を支援してきた北九州倭国は抹殺、その領土(北九州)は日本のヤマト王家の帰属とする。(関連し、白村江の戦いの後、日本は日本統一を果たしたと旧唐書にあります。)
3. 日本は引き続き唐の属国として扱われる。
4. 百済の残党には厳しく対処する。例えば、日本に逃げてきた百済文化人の関東流刑です。
これらをまとめますと、「白村江の戦い」は唐・新羅連合軍と百済残党・倭国の戦いであり、ヤマト政権は中立で、その結果、漁夫の利を得たと結論されます。
そして、日本書紀はなぜ歴史を改竄したかですが、理由は簡単です。「日本は万世一系の天皇家」という執筆方針があり、これに反する北九州倭国の実在は書けなかったこと、と思われます。
関連し、海戦の様子を上トップに示しました。
また、白村江の戦いの真相を下表にまとめました。
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[ 2022/12/23 08:22 ]
未分類
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邪馬台国と北九州倭国の実在が書かれていない
邪馬台国と北九州倭国の実在が書かれていない
天皇家はアイヌ系4.日本書紀は創作、2)邪馬台国と北九州倭国の実在を無視
現天皇家の前に日本を支配していたのは朝鮮半島由来のツングース系王家だったが、このことは、「天皇家は偉大な万世一系の王家」という日本書紀の執筆方針に合わないので無視されたことを前回に検討しました。
今回は、魏志倭人伝にあります邪馬台国、さらには中国南朝の宋の正史『宋書』にあります倭の五王が書かれてないことについて検討します。
まず、邪馬台国の場所ですが、北九州にあったことは間違いありません。邪馬台国がヤマトにあったという説がありますが、これは妄想です。
魏志倭人伝には、邪馬台国の倭人には分身(入れ墨)の風俗があり倭人は海南島の人々に似ているとありますが、邪馬台国ヤマト説では、このことは説明できないためか無視されています。
日本人はアイヌ系35%、マレー系30%、ツングース系25%、その他10%の混合混血民族ですが、当時こうした分身の風俗があったのは、中国南部から水田稲作を北九州に持ち込んだマレー系の人々以外に考えられません。
しかし、ヤマト説では、この倭人の習俗について無視しています。自説に合わない事実は無視し、都合のいい部分だけを入れて説明するということは学問ではあり得ません。こういう説は一般に妄想と言われます。
そこで、日本書紀では邪馬台国をなぜ無視しているかですが、これは現天皇家以前にあった国です。日本にある王家は天皇家だけという「万世一系」に合いません。北九州にあった邪馬台国を認めると、「天皇家は万世一系」にならなくなり、日本書紀は矛盾することになります。
関連し、卑弥呼は天皇家の子孫に当たる神功皇后という説もありますが、誤りに誤りを重ねる方法でしかないと思われます。現天皇家は継体王(在位:507-531年)に始まるという事実からして、継体王以前の天皇家については明らかに創作です。
次に、中国南朝史にあります倭の五王ですが、これは北九州にあった倭国の王以外にありえません。
倭の五王の最後に当たる倭王武は478年に南朝に上奏文を送り、高句麗から攻められている百済に支援を求めたという有名な話があります。このことは、同じマレー系の北九州倭国と百済の連携を示すものです。
この倭の五王を第17代(備中天皇)~第21代(雄略天皇)を当てる説がありますが、上記「卑弥呼は天皇家の子孫に当たる神功皇后」という説と同じように、過ちに過ちを重ねる説でしか無いと思われます。
例えば、479年に崩御したと推測されている雄略天皇ですが、この時代は、新王家を始めるアイヌ系継体王とツングース系王家が激しい戦いをしていたときであります。ツングース系王家の雄略天皇が南宋に朝貢し百済援助を求める余裕はなかったし、理由もありません。事実、日本書紀にも関連の倭王武のことは書いてありません。
倭の五王はヤマト王家と異なる北九州倭国の王であり、「天皇家は万世一系」という方針に合わないため、邪馬台国と同じように日本書紀では無視されたというのが真相と思われます。
一方、倭王武と北九州倭国の実在ですが、先に述べましたが、繰り返しますと次のとおりです。
まず、一つは、海に面した倭国の都の太宰府建造です。遺跡発掘によれば、その建造時期は5世紀で、日本で初めての条里制に基づいて建造された都で仏教寺院も建造されていました。5世紀は倭王武の時代で、倭国全盛時代であり、そこに都があったこととは歴史的事実とも合致します。
また、北九州の古墳には、ヤマトの古墳と異なり、装飾古墳が多いことが知られております。この装飾古墳のルーツは中国南朝にありますので、中国南朝と北九州倭国の関係があったことは確実です。
また、埼玉の稲荷山古墳鉄剣碑文があります。鉄剣碑文が創られた年代は471年(辛亥年)、そこには「天下の倭国の大王が居た」と書いてあります。また、北九州倭国領域の熊本県の江田船山古墳からも同内容の鉄剣が出土しております。
この5世紀後半の時代、日本には、北九州倭国の倭王武、朝鮮半島由来ツングース系ヤマト王家の王、同じくツングース系王家の関東王家の三王が居ましたが、ヤマトの王は継体王に攻められ滅亡寸前、関東王家はまだ小国です。すなわち、鉄剣に記されている大王は、天下の倭国の大王という意味で、中国の南朝から「征東大将軍」と認められた王は倭王武以外には考えられません。
まとめますと、邪馬台国と倭の五王の倭国は北九州にあったものですが、これは現天皇家と異なる王国であります。このため、これらは、「天皇家は万世一系」という日本書紀の方針に合いません。このため、日本書紀では無視され、言及されなかったと判断されます。
関連し、倭の五王時代の様子を上トップにまとめました。なお、このときヤマト王権は朝鮮半島由来のツングース系王家です。
また、日本書紀と倭の五王関係を下表に示しました。
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[ 2022/12/16 08:25 ]
天皇家はアイヌ系
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朝鮮半島由来王家の実在が書かれていない
朝鮮半島由来王家の実在が書かれていない
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作、1)朝鮮半島由来王家の実在を無視
冒頭(はじめに)で紹介しましたように、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、朝鮮半島由来ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であること、天皇家はアイヌ系であることが明らかになりました。
このことは、日本人は、ほぼ3民族の集合体であることになります。しかし、日本書紀が編纂された奈良時代、万葉集のような歌集を見れば、その時代から日本語の原型はアイヌ語です。万葉集に取り入れられた東北出身の采女の歌も日本語です。東北の蝦夷と言われた人々も同じ日本語を使うアイヌ系民族でした。
おそらく、この時代、アイヌ系言語をベースとした統一言語がほぼ確定し、日本人は、万世一系の天皇家を仰ぐ子孫と言われても多くの民衆は違和感は少なかったものと思われます。
しかし、事実は、天皇家は507年から始まるアイヌ系継体王であり、それ以前は朝鮮半島由来のツングース系王家でした。
前置きが長くなりましたが、関連し、今回は、日本書紀に書かれていない史実の一つ、現天皇家の前に「朝鮮半島由来王家が実在したこと」を検討します。
まず、この朝鮮半島由来のツングース系王家があったという事実は、巨大古墳や埴輪の内容から明らかですが、日本書紀の「万世一系の天皇家」という内容に合いません。このため、現天皇家の前にツングース系王家があったことは書けなかったのが真相と思われます。
この結果、ツングース系王家の遺した巨大古墳は現アイヌ系王家の王陵に改竄されてしまいました。
そこで、日本書紀に戻り、ヤマト(奈良)を支配していた人々について調べますと、Wikipediaによれば、神武東征最後のヤマトの戦いですが、次のとおりです。
甲寅年(紀元前667年)この年、日向国にあった磐余彦尊は、…と言って、東征に出た。・・・
戊午年(紀元前663年)・・・12月4日、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てず、天が曇り、雨氷(ひさめ)が降ってきた。そこへ金色の霊鵄があらわれ、磐余彦尊の弓の先にとまった。するといなびかりのようなかがやきが発し、長髄彦の軍は混乱した。このため、長髄彦の名の由来となった邑の名(長髄)を鵄の邑と改めた。今は鳥見という。長髄彦は磐余彦尊のもとに使いを送り、自分が主君としてつかえる櫛玉饒速日命(物部氏の遠祖)は天神の子で、昔天磐船に乗って天降ったのであり、天神の子が二人もいるのはおかしいから、あなたは偽物だと言った。長髄彦は饒速日命のもっている天神の子のしるしを磐余彦尊に示したが、磐余彦尊もまた自らが天神の子であるしるしを示し、どちらも本物とわかった。しかし、長髄彦はそれでも戦いを止めなかったので、饒速日命は長髄彦を殺し、衆をひきいて帰順した。
(引用終了)
これを解説しますと、次のようです。
紀元前663年12月4日、磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)は長髄彦(ナガスネヒコ=ヤマトの豪族=ヤマトの王?)と戦ったが、和睦しなかったので、後に神武天皇に使える饒速日命(ニギハヤヒ)によって殺された。なお、ナガスネヒコも天神(神の子)の子孫であった。
この記述から、ヤマトを支配していたのは天神の子孫のナガスネヒコであり、神武天皇以前にヤマトを支配していた神がいたことになります。
日本書紀の神を検討しますと、男の神(イザナギ)と女の神(イザナミ)から2系等が生まれています。一つは神武天皇の祖先の天照大神(アマテラス)等、もう一つは出雲の神の大国主(オオクニヌシ、大黒様)等ですが、現世に残ったのは神武天皇の系譜だけです。
すなわち、初めにヤマトを支配していたのは天神の子孫の長髄彦(ナガスネヒコ)であったが、これを打ち破り新たな支配者になったのが磐余彦尊(イワレビコ=神武天皇)という話になります。そこで、長髄彦をツングース系王家としますと歴史的事実と合致しますが、そのようには書いてありません。
関連し、ヤマト最初の王家に関係し日本書紀の問題について、まとめますと次のように理解されます。
天皇家(アイヌ系)は天照大神(アマテラス)の子孫であり、神武東征の結果、天照大神の子孫がヤマト、さらには全国を支配するようになった。そして、天皇家は日本古来のアイヌ系民族であるが、天皇家を偉大に見せるため、天皇家は天照大神の子孫であり万世一系とした。
一方、先にヤマトを支配していた豪族(実はツングース系王家)が居たが、これを王家と認めると、現王家よりも古い王家があったことになり、万世一系という方針に合わないので書けなかった。
なお、同様に関東にもツングース系王家が実在しましたが、同じ理由で書けなかったものと判断されます。
関連し、これらの経過を上トップに示しました。
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[ 2022/12/09 08:19 ]
天皇家はアイヌ系
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日本書紀は万世一系の創作だった
日本書紀は万世一系の創作だった
天皇家はアイヌ系 4.日本書紀は創作(第4章序文)
大仙陵古墳(仁徳天皇陵)等の巨大古墳を建造した朝鮮半島由来ツングース系王家(古墳王家)が、古墳建造に対する民衆の怒りを受け、アイヌ系の継体王によって6世紀初期に滅ぼされたことを検討してきました。
一方、200年後の8世紀初頭、日本書紀が編纂されました。
日本書紀は漢文で記載され、奈良時代(720年頃)に完成し、日本の正史と言われてきました。発案者は、壬申の乱を制し、名実ともに日本の大王となり、初めて自らを天皇と名乗った天武天皇(在位:673~686年)でした。
一方、日本書紀が創作であることは津田左右吉によって明らかにされています。Wikipediaによれば次のとおりです。
津田左右吉の成果は、記紀神話とそれに続く神武天皇以下の記述には、どの程度の資料的価値があるかを学術的に解明した点である。1919年の「古事記及び日本書紀の新研究」、1924年の「神代史の研究」が代表成果作である。津田は記紀神話から神武天皇、欠史八代から第14代仲哀天皇とその后の神功皇后まで、つまり第15代応神天皇よりも前の天皇は系譜も含めて、史実としての資料的価値は全くないとした。
(引用終了)
また、これまで指摘してきましたように、いくつかの史実が日本書紀には書いてありません。それらは、北九州倭国の実在等ですが、津田左右吉指摘の「史実としての資料的価値は全くない」だけでなく、日本史の大きな史実が抜けていることになります。
関連し、ここ(第4省)では、史実だが日本書紀に書かれていない事柄について検討します。
日本書紀で抜けている大きな史実としては、近畿に発生した最初の王家は朝鮮半島由来のツングース系王家であったこと、一方、同時に北九州には邪馬台国や倭国があったことですが、これらについて日本書紀には書かれていません。
まず、ツングース系王家無視の問題ですが、すでに冒頭(初めに)で紹介しましたように、DNA研究の結果ですが、天皇家はアイヌ系だという事実です。そのルーツは継体王(在位:507-531年)まで辿ることができ、かつ、王宮跡、陵墓も確認されています。
しかし、それ以前の大王となると、王宮場所不明・陵墓不明です。おそらく、継体王以前の大王は、継体王によって滅ぼされ抹殺されたと思われます。その抹殺の証拠にツングース系王家の末裔は誰も出てきません。
そこで、日本書紀がツングース系王家のことを書かなかった理由について検討しますと、天皇家は万世一系でアイヌ系でしたので、ツングース系王家があったことは書けなかった。すなわち、その矛盾を避けるため無視したものと判断されます。
例えば、ツングース系王家は前方後円墳の巨大古墳をいくつも建造しました。前方後円墳のルーツは朝鮮半島由来の方墳であることは遺物から明らかです。しかし、これら巨大古墳建造について詳しく言及しますと、それらは継体王以前に別の王朝があったことになり、日本書紀の天皇は万世一系ということが虚構(ウソ)になってしまいます。
次に、北九州倭国の無視です。
北九州倭国の存在は中国南朝の歴史書や朝鮮半島の歴史書や遺跡に認められます。そして、倭王武については、朝鮮半島南部と北九州を支配した王として中国南朝の歴史書に書いてあります。しかし、日本書紀では無視しています。
同じように、魏志倭人伝にあります邪馬台国も無視しています。
さらには、倭国と唐・新羅連合が争った白村江の戦いがありますが、この戦いは北九州倭国と唐・新羅連合の戦いでした。しかし、日本書紀では日本(倭軍)と唐・新羅の戦いに改竄されています。しかし、それら日本書紀の内容は矛盾だらけです。そして、この戦いで北九州倭国が滅びたことも無視されました。
これら邪馬台国や北九州倭国の無視の理由はツングース系王家無視と同じで、万世一系という「日本の王家はひとつだけ」という執筆方針に矛盾するためです。
以上のことから想像しますと、中国語のできる日本書紀の編集者は、北九州の邪馬台国や倭国のことは、中国の歴史書に書いてあることであり、当然のことながら知っていた、しかし、日本書紀の「万世一系」という執筆方針に合致しない歴史的事実は書けなかったのが真相と思われます。
以上のほか、日本の古代には、狩猟採集の縄文時代、稲作導入で豊かになった弥生時代、それから王家ができ古墳時代になりましたが、これらのことについても、ほとんど触れていません。
そこで、本章(日本書紀は創作)で検討する課題は次のとおりです。
1) 朝鮮半島由来ツングース系王家の実在を無視
2) 邪馬台国と倭の五王の実在を無視
3) 白村江の戦いの内容は虚構
4) 出雲国が神話で重視される理由
関連し、日本書紀が編纂された背景と創作方針について上トップ図に示しました。
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[ 2022/12/02 08:24 ]
天皇家はアイヌ系
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。
Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。
天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
カテゴリ
天皇家はアイヌ系 (27)
ブログの概要(記事まとめ) (24)
天皇家のルーツと日本文化 (6)
古代史の問題 (37)
古代史の虚像と書籍 (18)
日本人のルーツ (30)
日本語のルーツ (17)
日本書紀は創作 (9)
日本の古代 (8)
関東・東北の古代 (26)
西日本の古代 (40)
縄文思想と日本人 (33)
アメリカ先住民族と日本人 (13)
縄文時代と日本人 (20)
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