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日本人の縄文思想と稲作のルーツ

日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。DNA分類の結果、ヤマトにはツングース系王家が創られ、その後、アイヌ系の現天皇家に滅ぼされたと推察されます。万世一系を主題にした日本書紀は創作になります。関連し、今回は邪馬台国の真相に迫っています。
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鉄器はツングース系が持ち込んだ


鉄と水田稲作の普及経過


鉄器はツングース系が持ち込んだ

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 6)鉄器はツングース系が持ち込んだ

前回、日本の巨石文化のルーツはマレー系と関係があることについて検討しました。今回は、日本文化のルーツ最後になりますが、水田稲作拡大の基になった鉄器のルーツについて検討します。

まず、日本の稲作は、3000年前、佐賀県の菜畑遺跡に始まったことが知られております。しかし、これは石器を使ってできた水田跡でした。このためか、水田稲作の広がりはほとんどありませんでした。

水田稲作には、水路、畦畔造成等のために、鋤(すき)等の鉄製農具が必要です。この鉄製農具の導入は青銅器と一緒でBC300年(2300年前)と言われています。このことから、鉄製農具の普及は早くても2300年前以降となり、以上の水田稲作開始時期と一致します。

関連し、下の写真は、稲作が肉体労働だけで行われているマダガスカルの耕起の様子です。古代においても、このように鉄が先端に付けられた鋤が最初に作られ、水田稲作は行われたようです。

マダガスカルの鋤にによる耕起

近著「海の古代史」(布施克彦 2018、下図参照)は、たいへん参考になります。本著では海洋交易の発展の様子だけでなく、古代交易で重要な鉄のルーツや日本への輸出の様子が紹介されています。

書籍「海の古代史」

本著によれば、朝鮮半島南東部の慶州(後の新羅の都)で紀元前3世紀頃の製鉄遺跡が見つかっていて、この地域に一大製鉄産業があったことを紹介しています。そして、後に新羅はこの製鉄技術をベースに発展したようです。

新羅は、北に居たツングース系民族が南下し、建国された国と言われます。彼ら畑作民族ですが、この鉄器を使い、畑作だけでなく、水田稲作も始め、弥生時代の中心的民族として活躍したものと思われます。

このとき、朝鮮半島西側にマレー系が居て、水田稲作を行い発展し、後に百済を建設しました。おそらく、隣の東側に居たツングース系は、弥生時代、その水田稲作を学び、日本に来て、手持ちの鉄器を使い稲作を始めたと思われます。

日本には、縄文時代からアイヌ系とマレー系の人々が居ましたが、アイヌ系は中山間地に、マレー系は海岸地に住み、自給自足的な採集経済生活をしていました。このため、稲作適地の平野部、特に西日本地域は人が少なく、ツングース系の人々は容易に平野部で水田稲作を始めることができたと想われます。

なお、このとき、北九州に水田稲作技術をもたらしたマレー系が居ましたが、鉄器は十分でなく、かつ人口も少なかったことから、西日本全体で見ると、ツングース系に遅れをとったと想われます。数値で見ますと、水田稲作系のマレー系は10%、縄文時代からのマレー系は20%、鉄器をもたらしたツングース系は20%だったと推察されています。

関連し、人口増大と水田稲作開始時期の関係を下図に示しました。この人口変動図では、人口が増大の始まる時期を生産力の高い稲作導入期としています。

西日本地域の人口変動と稲作開始時期

人口が増大し始める時、すなわち水田稲作開始時期は、九州(緑線)は3000年前ですが本格的になるのは2000年前頃、中国(青線)は2200年前頃、四国(赤線)は1900年前頃になります。そして、この時期辺りが鉄器導入時期になります。

なお、東北地域(青森県)で2200年前より以前の水田稲作遺跡が見つかっております。しかし、その後の発展・拡大が認められていないことから、これは試作だったと理解されます。

関連し、鉄器生産と稲作、ツングース系民族の関係について、上トップに示しました。


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[ 2023/02/24 08:13 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(2)

巨石文化のルーツもマレー系


巨石文化のルーツとマレー系、パプア系の移動


巨石文化のルーツもマレー系

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 5)巨石文化のルーツもマレー系

日本文化について検討し、言葉はアイヌ系、神社宗教はアイヌ系、水田稲作のルーツは中国南部のマレー系、海洋交易や貝塚文化は縄文時代に渡来したマレー系にルーツがあることについて紹介してきました。

一方、以上の文化の他に、巨石文化が日本にあることが分かっています。この方面はブログ「神秘と感動の絶景を探し歩いて」に詳しく紹介されており、そのルーツの一つにインドネシアがあることを紹介しております。例えば「ここが日本かと驚く異様な信仰文化とは?」です。

しかし、それら巨石文化は多様であり、未だにそれらのルーツや巨石の意味については一部についてしか明らかになっていません。今回は、上記ブログ「神秘と感動の絶景を探し歩いて」とダブらないように、この巨石文化のルーツについて検討します。

まず、日本人はアイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系が25%、パプア系が5%、その他5%の混合混血民族です。

関連し、これら日本人と巨石の関係について調べますと、次のとおりです。

まず、注目されるのは、インドネシアの「世界最古のピラミッドはインドネシアに存在する!? 物議を醸す大論争が再燃」です。紹介のピラミッドは3万年前のもので、世界最古と言われております。このためか、否定する学者もおり、論争中のようです。

ここに住んでいた人達は当然のことながらマレー系の人々です。最近の氷河時代は約1万年前に終わったといわれますが、その氷河時代、インドネシア辺りにあった地域はスンダランドと言われ、雨は多く温暖、人類が住むのには最適な環境だったと言われます。

一方、人類は、アフリカで30万年に発生し、その一部の人たちはインドを経由し、スンダランドにも移住していたと思われます。その移住時期は明確でありませんが、その良好な環境のもと、3万年前に最古のピラミッドを作ったとしてもおかしなことではありません。

そして、そのピラミッドを建造した民族は、そこがルーツのマレー系であった可能性は高くなります。

一方、近隣のセレベス島にはバウリンドというモアイ像そっくりの巨石像が残されています。詳しくは「バウリンド像」を参照願います。

一方、「モアイ像」を建造した人たちはパプア系の人たちですが、同じようなバウリンド像を残した民族ともパプア系とも想われています。パプア系は日本にも5%ほど居ることが分かっています。

以上の情報から推察しますと、スンダランドにはマレー系の他パプア系も居て、パプア系の人々はスラウエシ島でバウリンド像を残し、イースター島でモアイ像を残したと思われます。

しかし、日本居る5%ほどのパプア系については、巨石文化との関係については、まったく知られておりません。これらの関係を上トップ図に示しました。

おそらく、パプア系もいろいろとあり、日本のパプア系は「モアイ像」や「ウリンド像」を残したグループと異なるのでしょう。

一方、巨石と関連し、弥生時代最大の円墳として岡山県の「楯築遺跡(たてつきいせき)」が知られております。この円墳の頂上には巨石が立てられていて、マレー系の人々が建造した可能性があります。その理由は次のとおりです。

弥生時代の遺跡は、高生産性の水田稲作の普及と一致します。マレー系が北九州に水田稲作をもたらし、それを朝鮮半島由来のツングース系が持参した鉄器を使い普及させました。

楯築遺跡があるところは、周辺に彦崎貝塚があり、そこからイネのプラント・オパールが発見され、陸稲稲作が行われていたことが分かっています。また、貝塚も残されており、これらの遺跡を残したのは縄文時代に住んでいたマレー系以外には考えられません。

弥生時代に入り、北九州に渡来したマレー系の人々が岡山に移住してきました。彼らは、縄文人のマレー系と弥生人のマレー系として感動的な出会いをしたと想像されます。また、塩田跡も残されており、彼らは水田稲作だけでなく塩の交易でも豊かになっていったと推察されます。

一方、ツングース系民族ですが、彼らの3世紀頃の拠点は出雲であったことは先に述べました。この時代、日本海側にツングース系の拠点の出雲、瀬戸内海側にマレー系の拠点(吉備)があったことになります。

しかし、4世紀になると、前方後円墳を建造したツングース系の時代となり、楯築遺跡辺りの吉備地域はツングース系の支配地となりました。マレー系は拠点を失い、海洋系として瀬戸内海のあちらこちらに住むようになったと想われます。これが瀬戸内海族の始まりと思われます。

まとめますと、日本文化のルーツのうち巨石文化と関係しているのはマレー系とパプア系と思われます。なかでもマレー系は楯築遺跡など巨石を伴った弥生遺跡を残しました。一方、パプア系はセレベス島のタマリンド像や遠くイースター島でモアイ像を残しましたが、日本での遺跡は発見されていません。

また、自然の巨石信仰も含めて検討しますと、日本には多くの巨石信仰や神社が散見されます。これら巨石信仰についてのルーツがアイヌの自然信仰に由来しているのか、あるいはマレー系やパプア系が関係しているのか、まだ明確な結論は出ておりません。

なお、東北の中山間地にあるストーンサークルはアイヌ系の遺跡と思われます。

一方、下の写真は、マダガスカルに移住したマレー系の残した石像です。これもマレー系の石像文化の一つと思われます。


マダかスカルのマレー系が残した石像


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[ 2023/02/17 08:13 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)

海洋文化のルーツはマレー系


マレー系の日本移住


海洋文化のルーツはマレー系

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 4)海洋文化のルーツはマレー系

日本語、日本宗教(神社)、稲作のルーツについて検討してきました。

日本語はアイヌ語がルーツであることが明らかです。神社信仰はアイヌの自然との共生思想がベースになり、これに東南アジアから持ち込まれた鳥居、さらには中国様式の境内が導入され、荘厳な神社ができあがりました。また、日本農業(生産力)のベースになった水田稲作は、中国南部に居た稲作民族のマレー系が持ち込み、朝鮮半島由来ツングース系が鉄器を持ち込み普及させました。

これらの他、日本には海洋系の文化が縄文時代遺跡から覗えます。それらは、山内丸山時代の海洋交易、関東地域の巨大な貝塚遺跡等です。

関連し、今回は、これら海洋交易文化がどのように持ち込まれ発展したのか検討します。

結論から入りますと、日本人は、アイヌ系が35%、マレー系が30%、ツングース系が25%、その他10%の混合混血民族であることがDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果明らかになっていますが、上記の海洋文化と関連する民族はマレー系以外には考えられません。すなわち、日本の海洋文化のルーツはマレー系民族にあることはほぼ間違いないと判断されます。

マレー系が日本に来た経過については、2回の波がありました。1回目の波は6000年前の縄文時代です。縄文時代人骨調査によれば、マレー系らしい小柄な人骨が多数発見されていますが、これらはマレー系民族の人骨と思われます。

これらの流れの中で、マレー系は海洋交易の遺跡を至る所に残しました。三内丸山遺跡と関連し、網走の黒曜石や富山の宝石(翡翠)の分布はそれらを物語っています。また、関東の居住地からは多数の貝塚が残されていますが、これらも海洋系マレーの生活跡と想われます。

極めつけは、岡山市の彦崎貝塚です。ここからは貝塚の他に6000年前の地層から稲プラント・オパールも発見されています。この時期の稲は陸稲ですが、稲を持ち込んだのはマレー系以外には考えられないことから推察しますと、マレー系が貝塚と併せて残した稲遺跡と思われます。

マレー系、第二の流れは弥生時代の稲作導入時期です。このことは前回紹介した通りです。

これらの様子を上トップ図に示しました。

以上のことから、マレー系の日本渡来については、縄文時代と弥生時代の2回に分かれますが、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)の結果、それぞれDNAの違いが明らかになっています。

日本と朝鮮半島には、約30%のマレー系がいますが、縄文時代マレー系(マレー系A)は日本に20%と多く(韓国で10%)、一方、弥生時代マレー系(マレー系B)は日本で10%と少ない(韓国で20%)状況です。

次に、日本に古来より居る海の民と言われる海族や隼人族ですが、以上の経過からして、そのルーツは縄文時代のマレー系と結論されます。彼らは、縄文時代、海岸に居を構え、貝を主食としの日本の海を自由に航海し、交易したのではないかと想われます。

その関係から想像しますと、古墳時代末期、アイヌ系継体王(在位:507-531年)が現れ、巨大古墳を建造したツングース系王家を滅ぼしましたが、海洋系マレーは同じ縄文時代からの仲間のアイヌ系に協力して新時代王家の仲間入りをしたのではないかと思われます。

その1人が大化の改新(乙巳の変 645年)で有名になった中臣鎌足です。彼は、継体王が王家を開いたとき、海洋系の代表として新政権の有力者(豪族)の1人となり、歴史に名を残すようになったと想われます。なお、中臣鎌足が縄文時代からのマレー系であることはDNA研究から分かったことです。

さらには、海の神を祭っている宗像大社があります。Wikipediaによれば宗像大社は次のとおりです。


宗像大社(むなかたたいしゃ)は福岡県宗像市に在る神社。式内社(名神大社)、八神郡の一つ。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。日本各地に七千余ある宗像神社、厳島神社、および宗像三女神を祀る神社の総本社であり、『日本書紀』では、一書に曰くとして「道主貴」と称される。玄界灘に浮かぶ沖ノ島を神域とし、沖ノ島で出土した古代祭祀の奉献品の多くは国宝に指定されている。裏伊勢とも称される。(引用終了)

すなわち、宗像大社は海族を守ってきた巨大な神社であり、沖ノ島という神域まであり、アイヌ系の現王家を海から支えてきた神社と理解されます。

一方、日本以外のマレー系ですが、彼らがアフリカのマダガスカル移住したことは有名です。彼らは1世紀頃からマダガスカルに居たこと、バナナや稲作をアフリカに導入したこと、マダガスカルの多数派民族になったことが知られています。

どのように、彼らはマダガスカルに移住したかについての詳細は分かっていませんが、遺跡調査によれば、彼らは、まず対岸の東アフリカ(タンザニア)に居住し、その後、マダガスカルの北部海岸に移住し、1年中温暖な山間部に移住したことが分かっています。

このマレー系のマダガスカル移住については下図に示しました。

海洋系マレーの日本とマダガスカルへの道

一方、日本とアメリカ大陸先住民族の関係もあります。5000年前の縄文土器がペルーで発見されたのは有名な話です。これが、日本に居た海洋系マレーが持ち込んだのかは興味あるところです。

また、関連し、日本人がアメリカ大陸に移住したことについては多くの日本人研究者が指摘しています。

最近の研究によれば、現在の北米インデアンは1~5世紀頃に移住したトルコ系民族(Y染色体ハプログループQ等)であることが分かっています。しかし、中南米の民族のY染色体ハプログループ分類については報告がありません。

この様子を、想像ですが下図に示しました。

縄文時代マレー系のアメリカ移住(想像)

下の写真(2枚)は著者がマダガスカルの先住民族の人たちを写したものです。アフリカ人に混じってマレー系の老婦人が見えますが、彼女はインカ先住民族に似ている感じがしています。

マダガスカルで見たマレー系2

マダかスカルで見たマレー系1

関連し、Web検索情報ですが、古代インカの人々のDNAについては、ミトコンドリアDNA情報はありますが、Y染色体ハプログループについては、報告を見ることはできません。

Y染色体ハプログループが分かれば、古代インカ人のルーツは分かりますが、まだ関連の報告を見ることができないのは不思議です。何か大きな力が陰で動いている感じがします。

背景に、日本人が中南米に移住し、インか文明等を残したことを認めたくない勢力があるものと想われます。


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[ 2023/02/10 07:32 ] 未分類 | TB(-) | CM(4)

稲はマレー系が持ち込んだ


照葉樹林文化地帯周辺のマレー系(O1b)の割合


稲はマレー系が持ち込んだ

天皇家はアイヌ系 5.日本文化のルーツ 3)稲はマレー系が持ち込んだ

日本文化のルーツと関連し、日本語はアイヌ語、神社宗教はアイヌの自然信仰に由来すること、それらは、天皇家が朝鮮半島由来ツングース系からアイヌ系の継体王(在位:507-531年)に替わったことに由来することを検討してきました。

一方、日本には、アイヌ系とは独立に発展した文化として稲作、納豆などの発酵食文化が知られております。これらの文化は東南アジアの食文化と関係があり、照葉樹林文化とも言われたことがあります。

そして、照葉樹林文化は照葉樹林文化論とも言われ、50年前の1970年代、稲作のルーツとも関連し、たいへん流行った文化論でした。

関連し、今回は、これらの文化が誰によってもたらされたのか検討し、照葉樹林文化論が否定されている現状について検討します。

まず、照葉樹林文化は、Wikipediaによれば、照葉樹林文化論として次のように紹介されております。

照葉樹林文化論(しょうようじゅりんぶんかろん)とは、1970年代以降の日本の文化人類学において一定の影響力を持った学説である。具体的には、日本の生活文化の基盤をなすいくつかの要素が中国雲南省を中心とする東亜半月弧に集中しており、この一帯から長江流域・台湾を経て日本の南西部につづく照葉樹林地域に共通する文化の要素は共通の起源地から伝播したものではないかという仮説である。また日本列島の縄文文化は照葉樹林文化の一種であるとの誤解を一部にまねいた。(引用終了)

引用記事をまとめますと、照葉樹林文化論はほぼ否定されたものと思われます。

第一の理由は、日本の食文化に多大な影響をもたらした稲作のルーツについては雲南でなく、江南地方であることが分かったことです。

最近の研究では、最も古い稲品種はインドネシア(もとスンダランド)にあり、種類は熱帯日本型で、地球温暖化に伴い、それらが北上し、縄文時代頃に揚子江流域の江南地方で栽培されたことが分かっています。

それを裏付ける代表的遺跡は7000年から始まったと言われる巨大な河姆渡(かぼと)遺跡です。この遺跡は北の3000年前の黄河文明より早いとも言われております。

そして、稲作の北上経過ですが、初めに、最古の稲品種がインドネシアで開発され、それが北上し江南地方に広がり、さらに北上し、山東半島を経て、韓国西南部と北九州に3000年前頃に広がったと推察されています。

一方、岡山市の彦崎貝塚で、6000年前の地層からイネのプラント・オパールが多量に出土したことが明らかになっていますが、これが日本最古の稲作遺跡と判断されます。しかし、この縄文時代稲作は陸稲栽培でした。上記の河姆渡遺跡とは別の流れのものと推察されます。

陸稲栽培は、畑作と同じで、連作ができない、休耕期間が必要である問題があり、一般に低収栽培技術です。しかし、水田作は、流れてくる水の中に含まれている養分を肥料として使うことができますので、連作可能な栽培技術です。

この水田稲作の普及は、水路造成、水を貯める畝造成が必要であり、2500年前の鉄器の普及と共に広がったと判断されます。

次に、民族との関係ですが、日本人は、アイヌ系35%、マレー系30%、朝鮮半島由来ツングース系25%、その他10%の混合混血民族です。こういった東南アジア文化を日本に持ち込むことができた民族はマレー系以外に考えることはできません。

因みに、照葉樹林文化地帯と言われる東南アジアと東アジアのマレー系の人々の割合は上トップ図のとおりです。

マレー系の人々はバリ等やジャワ島で割合が高く、ここがルーツと思われます。さらには、ベトナムで33%、ヤオ族(中国南部)で40%、朝鮮半島と日本で32%と高頻度です。マレ-系の人々が稲作を携え、東南アジア、中国を北上し、朝鮮半島と日本へ来たのはほぼ間違いないと思われます。

関連し、近著「稲作渡来民」(池橋宏 2008)には、その経過が詳しく描かれています。(下図参照)

稲作渡来民(書籍)

まとめますと、50年前に流行した照葉樹林文化論は、稲作起源が雲南ではなく江南地方であることが明らかになり、否定されたものと想われます。

稲作はマレー系民族が日本へ持ち込んだことは明らかです。一方、水田稲作には鉄器が必要です。これを携え、水田稲作を普及させた朝鮮半島由来ツングース系民族の評価も水田稲作普及の観点から重要と判断されます。


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[ 2023/02/03 08:03 ] 天皇家はアイヌ系 | TB(-) | CM(4)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
「天皇家はアイヌ系」についてまとめています。詳細(目次)は下のとおりです。どうぞよろしく。

レインボー

Author:レインボー
現在は邪馬台国の真相についてまとめています。

天皇家はアイヌ系(目次) はじめに 1. 日本民族のルーツ 2. 古墳王家は何故滅びたのか 3 古墳王家はアイヌ・マレー系連合に滅ぼされた 4.日本書紀は創作 5.日本語と日本人宗教のルーツ 終わりに
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