「墓なし坊主なし弔い」愚考(縄文思想と日本人)

「墓なし坊主なし弔い」愚考(縄文思想と日本人)
「墓なし・坊主なしの弔いをやってわかったこと」という記事がダイヤモンドオンラインに出ておりました。前回(2日前)の葬式記事に通じるところがありますので、続編として今回は「墓なし坊主なし弔い」について愚考します。
まず、その記事の一部(末尾)を紹介しますと次のとおりです。
母は、実家の仏壇も撤去し、縁の近い先祖数人の写真を箪笥の上の目立つ場所に飾って、毎日、写真に向かって語り掛けている。彼女は、「狭い仏壇の中に閉じ込めておくよりも、はるかにご先祖様に対して親しみが湧くし、彼らのことを思い出す」と言っている。気が向いたら、飲み物や食べ物をお供えすることも勝手にできる。
彼女も彼女の子どもたちも無宗教だが、先祖に対する親しみや感謝の念は大いに持っている。また、冒頭にも述べたように、筆者は他人の信仰心を否定しようとは思っていない。生きている者の気持ちが整い、気が済めばいいのだ。
ただ、宗教及び「宗教ビジネス」を介在させなくとも、心のこもった弔いはできるし、先祖を思い出して感謝する生活をすることができる、ということをお伝えしたいだけだ。
父の遺骨は、しばらく自宅に置かれる予定だ。どこかに散骨するのがいいか、自分も一緒に埋葬してもらえるようにどこかの施設に埋葬するか、遺骨の処置を、母はゆっくり考えるという。
息子としては、もちろん散骨で構わないし、あるいは、母親も彼女の子どもも都会の賑わいと人間が好きなので、彼女の娘と息子が暮らす東京都下の共同埋葬施設に納めてもらうのがいいかもしれない、とも思っている。
明日あたりは、父の写真が実家のどこかに飾られるはずだ。父の写真にあれこれ語り掛けながらの、母の新しい生活が始まる。(引用終了)
まとめますと、「心のこもった弔い」は、宗教及び「宗教ビジネス」を通じて行なわなくても、家族葬でできるということだと思います。
前回の報告でも紹介しましたが、日本の葬式は通夜と仏教式の二つを行いますが、通夜は日本古来の縄文時代からある儀式で「あの世への送る儀式」、仏教式は新しい儀式で「極楽浄土へ送る儀式」で、内容が違います。
本記事にあります「墓なし坊主なし弔い」は、どちらかと言うと日本古来の葬式に近いと思われます。
以上、「墓なし坊主なし弔い」愚考でした。
なお、上と下の写真は、記事と関係ありませんが、自然との共生を目標に日々遊んでいる我が菜園のアケビの様子です。種があり食べにくいですが、ジュウシイで甘くたいへん美味しいです。これを食べるたびに山で遊んだ少年時代を思い出します(笑)。


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