東北の縄文人は縄文カレンダーで寒冷時代を乗り切った

東北の縄文人は縄文カレンダーで寒冷時代を乗り切った(日本人のルーツ)
北海道と東北にあるストーンサークルは縄文時代の遺跡ですが、その用途については、祭のモニュメント説、有力者の墓地説などが挙げられていますが、明確でない感じがします。一方、拙ブログでは、縄文カレンダーであったことを、昨年8月8日に紹介しました。そして、縄文人は、そのカレンダーを使い、厳しい寒冷化の時代を乗り切ろうとしたことを検討しました。
今回は、東北地方の人口変化から、このことを、さらに検討します。
まず、小山(1984)の遺跡の数から推定した古代人口データを用い、東北、北陸、関東の人口変動を示しますと、上の図のとおりです。
寒冷化は、4200年前と3500年前の2回に渡って襲ってきますが、この結果、人口が一番減ったのは関東地方です。関東地方は、寒冷化前の5000年前は東北の2倍近い人口の9.5万人近くがありましたが、寒冷化後の3000年前は0.8万人まで著しい低下をしております。関東地方は縄文時代にあっても東北よりも暖かだったと推察されますが、意外なデータでした。
次いで、人口が減ったのが北陸で2.5万人から0.5万人に減少しています。一方、東北の減り方は4.7万人から4.0万人ですので、減り方が緩やかです。このことは、東北の人々は、寒冷化にあっても移動することなく、生き延びたことを示しています。
では、東北の縄文人は、どのようにして生き延びたのか。ストーンサークルは東北に集中していることから推察しますと、おそらく、ストーンサークルという正確なカレンダーを持ち、主食となる栗や鮭などの食料の確保を適期に収穫し、冬の寒さに備えたのだと思われます。
一方、関東ですが、東北と比べると、寒冷化がきても、相対的に暖かかったと思われます。しかし、カレンダーはなく、計画性はなく、極端な冷年には耐えることが出来なかったのが真相かと思われます。
まとめますと、ストーンサークルは、作られた時期は寒冷化気候のときであること、それは寒冷化の厳しかった北海道と東北に集中していることから推察しますと、1年を食料確保のため計画的に暮らすことを目的としたカレンダーであった、と考えるのが妥当かと思われます。

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