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弥生時代の始まりと人口変化の不適合(稲作と日本人)

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レインボー
菜畑遺跡見本水田


弥生時代の始まりと人口変化の不適合(稲作と日本人)

弥生時代は、Wikipediaによれば、「採集経済の縄文時代の後、水稲農耕を主とした生産経済の時代である」、とあります。そして、弥生開始年代は、2500年前頃を改め3000年前とする、と学会で2003年に決まったようです。

言い換えますと、自然採集生活という縄文時代に代って、水稲農耕が始まった結果、食料革命が起こり、飛躍的に人口が増え始めたときが弥生時代であることになります。そのことを、前回紹介の遺跡の数から推定した小山(1984)の人口データで、弥生時代開始が早かった九州地域と遅かった東北で確認しますと下の図の様になります。

鉄器導入前後の人口変動(東北と九州)

この図では、3000年前(BC1000)~2000(BC0)年前においては、九州であっても人口増加がわずかであり、実際に人口が増加し始めるのは、2500年前頃からです。3000年前から弥生時代が始まり人口が増えたとするには無理があります。

関連し今回は、小山(1984)の古代の人口データと学会の決定とのギャップについて愚考します。

稲栽培については、岡山県の縄文遺跡からイネに着いているプラントオパールが検出されていることから、稲は6000年前の縄文時代からから畑作物(陸稲)として作られていたことが明らかになりました。しかし、稲は干ばつに弱いなどの問題があるので畑作物には適しません。

このため稲は水田で作ることが求められますが、菜畑遺跡(佐賀県唐津市)で2930年前の水田跡が見つかったことから、水田稲作は3000年前から始まったと言われるようになり、この事例を重視し、弥生時代は3000年前から始まったと学会で結論された感じがします。

しかし、菜畑遺跡の例ですが、同じような例は、その後見つかっておらず、むしろ例外的と判断した方が普通かと思われます。例えば、その水田には水を貯めるための畦が作られていたようですが、畦と言うには立派過ぎる感じがします。関連し、上の写真はその見本水田です。この時期、鉄器はまだ利用されておらず、木製農具だけで作ったのでしょうか。

他の水田跡遺跡を見ますと、例えば、弥生時代中期の「垂柳遺跡の水田跡」は下の写真のとおりで、この時期は鉄器が入っていたと思われますが、それでも畦は低くできています。その他の遺跡も弥生時代は同じようです。

青森県垂柳遺跡の水田跡

すなわち、菜畑遺跡の水田跡は、水田というよりは養魚場のような印象を受け、当時の木製農具で作ったというよりも石器を使い立派な池を作った感じです。その意味で、この水田を、弥生時代を代表する水田跡とするには無理があります。

まとめますと、3000年前に弥生時代が始まったという時代区分は、人口の変化、そして、当時の鉄器の無かった稲作技術のレベルから推察しますと、かなり無理のある結論と思われます。その意味で、弥生時代を代表する遺跡として評価されている菜畑遺跡は、例外的な存在と評価した方が妥当と判断されます。

人口の増減から推察しますと、鉄器が導入され、水田が開発され、水田稲作が九州で広く展開されるようになったのは従来通り2500年前頃からとするのが妥当と思われます。そして、東北では300年遅れて水田稲作が始まったことが、上の人口変化から推察されます。


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レインボー
Posted byレインボー

Comments 8

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michikusa520

こんにちは。大変に興味深い記事でした。

鉄器を用いた本格的(?)な稲作の開始時期のズレが、その地域の爆発的な人口増加の開始時期のズレをもたらした、とすれば、温暖な九州で先行して人口増加が起こり、他を圧倒する勢力となった、とも考えられますので、天孫降臨伝説が九州地方に伝わっている理由も、実際のところはともかく、何となく腑に落ちる気がします。

一方で、東北地方は人口増加が遅れたけれども、その分、独自の文明・文化が発達した、ということでしょうか。是非、ストーンサークルも見学に行ってみたいと思います。

  • 2018/01/10 (Wed) 11:43
  • REPLY
そらまめ

こんにちは

その昔 苦労を重ねて“お米”を手に入れていたのかが
良くわかります。現代人とは比べ物にはならないくらい。

米どころは東北という先入観と 九州がお米の
発祥地?・・・とかが 頭の中で混乱したりで。
色々 勉強させていただいてます。

aoi
ググったら

今年は皇紀2670年とありました。
神武天皇即位が紀元前600年だそうですから、丁度弥生時代に重なることになりますね。
何で神武天皇は東征したのか、調べるとやはり食糧問題みたいですね。
稲作の普及により人口が急増したため、より人口密度の低い東国に移動せざるを得なかったためと考えられます。
とググったらありましたw

  • 2018/01/10 (Wed) 16:16
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レインボー
Re: michikusa520 さん、 東北地方は人口増加が遅れたけれども

michikusa520 さん
たいへん貴重なコメント、ありがとうございます。

東北地方は人口増加が遅れたけれども、ですが、ご指摘のとおりだと思います。
その方面をこれから追及してみたいと思っています。
草々


> こんにちは。大変に興味深い記事でした。
>
> 鉄器を用いた本格的(?)な稲作の開始時期のズレが、その地域の爆発的な人口増加の開始時期のズレをもたらした、とすれば、温暖な九州で先行して人口増加が起こり、他を圧倒する勢力となった、とも考えられますので、天孫降臨伝説が九州地方に伝わっている理由も、実際のところはともかく、何となく腑に落ちる気がします。
>
> 一方で、東北地方は人口増加が遅れたけれども、その分、独自の文明・文化が発達した、ということでしょうか。是非、ストーンサークルも見学に行ってみたいと思います。

  • 2018/01/10 (Wed) 17:19
  • REPLY
レインボー
Re: そらまめ さん、九州がお米の 発祥地?

そらまめ さん
貴重なコメント、ありがとうございます。

九州がお米の発祥地?ですが、米は陸稲として西日本各地に縄文時代からありますので、
九州は水田の発祥地というのが正しいかと思います。
草々

> こんにちは
>
> その昔 苦労を重ねて“お米”を手に入れていたのかが
> 良くわかります。現代人とは比べ物にはならないくらい。
>
> 米どころは東北という先入観と 九州がお米の
> 発祥地?・・・とかが 頭の中で混乱したりで。
> 色々 勉強させていただいてます。

  • 2018/01/10 (Wed) 17:25
  • REPLY
レインボー
Re: aoi さん、ググったら

aoi さん
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

神武天皇は東征ですが、神武天皇は日本国を統一するため東征した、と拙ブログでは想像しております。
稲作普及との関係は分かりません。
草々


> 今年は皇紀2670年とありました。
> 神武天皇即位が紀元前600年だそうですから、丁度弥生時代に重なることになりますね。
> 何で神武天皇は東征したのか、調べるとやはり食糧問題みたいですね。
> 稲作の普及により人口が急増したため、より人口密度の低い東国に移動せざるを得なかったためと考えられます。
> とググったらありましたw

  • 2018/01/10 (Wed) 17:30
  • REPLY
坂田カウンセリングオフィス(坂田和代)
ありがとうございました

こんにちは。
ご無沙汰しておりました。
年末には、大変あたたかいコメントを弊ブログにいただきまして、ありがとうございました。
とても励みになります。

レインボー様のブログこそ、いつも学術的で深い内容で、興味深く拝見させていただいています。

今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 2018/01/12 (Fri) 12:07
  • REPLY
レインボー
Re: 坂田和代様、こちらこそ、ありがとうございます

坂田和代様
新年から、ご高配、ありがとうございます。たいへん心強く感じます。

坂田和代様のブログですが、内容は深く、いつも勉強になり、
参考にさせて頂いております。

こちらこそ、ありがとうございます。
草々

> こんにちは。
> ご無沙汰しておりました。
> 年末には、大変あたたかいコメントを弊ブログにいただきまして、ありがとうございました。
> とても励みになります。
>
> レインボー様のブログこそ、いつも学術的で深い内容で、興味深く拝見させていただいています。
>
> 今年もどうぞよろしくお願い申し上げます。

  • 2018/01/12 (Fri) 17:57
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