弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)
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レインボー

弥生時代開始が北九州は畿内より200年早い(邪馬台国と日本人)
邪馬壱国(邪馬台国)がどこにあったのか、まだ論争している感じがします。
拙ブログでは、倭国の風俗が中国の海南島の風俗に似ているという魏志倭人伝の指摘から、海南島近辺に居たマレー系の稲作民族が、北九州に住み始め、邪馬台国を作ったと指摘しております。
今回は、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、邪馬台国候補地の九州と畿内の当時の状況について愚考します。
まず、それぞれの地域の人口変化は上の図のとおりです。この図で見ますと、九州では、畿内より先に人口が増加し、その増加時期は2500年前(BC500年)頃から始まったと推察されます。言い換えますと、水田稲作が本格的に始まったのが、その時期と推察されます。
一方、畿内ですが、人口が増え始めるのは2300年前(BC300年)と推察されます。すなわち、九州より200年遅れていることになります。邪馬台国のあった3世紀は、人口が増え、国が形成される激動の時代ですので、この200年の差は大きいと思われます。
そして、このデータは九州については全域のデータですので、菜畑遺跡や板付遺跡という弥生時代の先進地であった北九州だけについて考慮するならば、その差はもっと大きかったと予想されます。
この差を踏まえ、邪馬台国のあった3世紀の状況を考察しますと、北九州は先進地域、畿内は後進地域であったと推察されます。例えば、邪馬台国には文字があり、万葉仮名を使って、国名を邪馬壱国(意味はマレー系移住者第一の国)と称し中国に朝貢していました。そして、絹織物などの宝物をもらうなど先進文化に接していた時代でした。
一方、畿内ですが、統一されておらず、多くの大王が各地域にいて、前方後円墳を作り始めた時代でした。
まとめますと、九州北部は、畿内より200年早い2500年前という時期に弥生時代(水田稲作)が始まり、人口が増加し、1世紀には倭国として中国に認められ、そのなかの奴国が中国に朝貢し金印を授与されるなど、日本で先進地域となりました。そして、3世紀には邪馬壱国(邪馬台国)の女王「卑弥呼」が現れた、と結論されます。

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