関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)

関東地方に大王が居たのか(邪馬台国と日本人)
ブログ仲間が「古墳は語る(13)~前方後円墳の一番多い県はどこ?」で、1位が千葉、4位が奈良と、関東が畿内より前方後円墳が多いこと、関連し、前方後円墳が畿内政権(大和政権)の管理の下に作られたとは言えないことを紹介しておりました。
巨大な前方後円墳が作られた4世紀後半が畿内政権の確立した時期とみられますが、それ以前にも前方後円墳が各地で作られていることから推察しますと、前方後円墳というのは、地域大王の象徴であり、畿内政権とは独立した存在という指摘は、そのとおりの感じがします。
関連し、今回は、前回と同じく、遺跡の数から古代の人口を推定した小山(1984)のデータを用い、畿内と関東の古代の人口変化から、「関東地方に大王がいたのか」について、愚考します。
まず、それぞれの古代の人口変化を示しますと、下の図のとおりです。関東と畿内、それぞれ同じような変化ですが、弥生時代開始、すなわち、稲作が確立し人口が増加し始めるのは僅かに畿内が早く、2300年前頃、そして、50年遅れて関東で増加が始まる、という感じかと思います。

ということは、人口が増え、国ができるときの年代差はわずか、関東においては50年遅れで大王が出現していた、と思われます。そこで、古墳時代初期の大王墓と思われる20m以上の前方後円墳をまとめますと、下表のとおりです。すなわち、畿内で最も古い前方後円墳はホケノ山古墳(奈良)で3世紀前半の建造、関東で最も古い前方後円墳が神門(こうど)15号墳(千葉)で3世紀中頃の建造です。 ここでも50年の遅れがある感じです。

一方、拙ブログでは、埼玉古墳で見つかった「稲荷山古墳出土鉄剣の碑文」から、そこに記されている王の名前はワカタケルでなくエカタシロで、5~6世紀に畿内政権に支配されていないことからエカタシロ大王が関東に居たと推察しました。
関連し、古墳数を入れた関東地図を作りますと上図のとおりで、埼玉古墳は畿内よりも多い古墳に囲まれていた地域であります。まさに、関東にエカタシロ大王が居たとすれば、畿内の大王と同じくらい大きな大王であったことを思わせます。
まとめますと、畿内と関東における弥生時代以降の古代の人口増加はほぼ同じで、畿内がわずかに早く、弥生時代と古墳時代が始まった。そして、それぞれの地域に大王が居て、関東にはエカタシロ大王が居た、と思われます。

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