百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)

百済王国地名はマレー語由来(日本語のルーツ)
百済(くだら)王国は朝鮮半島南西部に3世紀頃から現れた国家です。その頃、日本では北九州に邪馬壱国(邪馬台国)があった時期ですが、百済と邪馬台国は、近接しており、かつ稲作民族国家であったことからたいへん似た要素をもっています。
日本人のルーツについては、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)によれば、アイヌ系が35%、マレー系が30%、中国系とモンゴル系混血のツングース系が30%、その他5%です。マレー系民族は稲作民族であることを紹介してきましたが、拙ブログでは、日本稲作についても、そのマレー系民族が深く関わってきたことを紹介してきました。
一方、百済のあった朝鮮半島ですが、マレー系が日本と同程度の30%もいます。そして、百済王国後期の中心地域であった忠清南道扶余郡に約2500年前の松菊里弥生遺跡がありますが、この遺跡は北九州にある日本最古の弥生遺跡の菜畑遺跡や板付遺跡と同時代のものと評価されています。これらのことから、百済と邪馬台国(倭国)は、マレー系民族によって稲作が始まり、ほぼ同時代に同民族によって作られた国家と推察されます。
また、マレー語の発音が日本語と似ていると言われます。そこで考えますと、マレー語発音=漢字(万葉仮名)=日本語発音、の可能性がありますが、万葉仮名が、同じマレー系民族の国と思われる百済と倭国で使われていたことが分かれば、この謎は解けます。
そこで、今回は、百済の首都などの古代漢字地名を万葉仮名で読み、それがマレー語なのか愚考します。なお、百済の地名については、「百済の歴史」を参考にしました。
松菊里弥生遺跡を含め、調べた地名と場所を上の地図に示しました。そして、その地名と万葉仮名読みとマレー語の意味は下表のとおりです。

まず百済の首都地名ですが、万葉仮名風に読めば、それに対応するマレー語があります。特に最後の首都となる泗沘城はサヒ城と読み、マレー語sahihの意味はauthentic(本物)であります。泗沘城は高句麗から追われて作った山城ですので、まさにサヒ城は本物の守りの城でマレー語のサヒ(authentic)であったと理解できます。
また、朝鮮半島南端にあった伽耶国ですが、カヤと読み、マレー語kayaの意味はrich(豊)でありです。魏志倭人伝で有名な「魏志」によれば伽耶は鉄を産出し農作物も豊かであることが紹介されています。まさに伽耶はマレー語のkaya(rich)であったと理解できます。
さらに、拙ブログでは、「魏志倭人伝に出てくる日本の地名はマレー系言語」であったこと紹介しましたが、百済の地名でも同じであったことが考えられます。
さらには、百済はクダラと万葉仮名で読めないことが知られておりますが、「クダラ(kudara)はマレー語でbrotherであること」、関連し、倭国の人達は同じマレー系の民族として百済を兄弟(クダラ=brother)と呼んでいたことから、そのような読みになったことを拙ブログで紹介してきました。
まとめますと、百済の国家は、初期は満州に居た扶余族が支配者となって形成されたと言われておりますが、周辺状況や残された地名から、ベースとなった民族はマレー系の人々であった可能性がさらに深まりました。

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