水田稲作は鉄の農具があって初めて可能(稲作と日本人)

水田稲作は鉄の農具があって初めて可能(稲作と日本人)
稲作と関連し、弥生時代開始期を3000年前からとするのは早すぎることについて前回(1月10日)検討しました。今回は、水田稲作は鉄の農具があって初めて可能であることについて愚考します。
水田稲作は、畑作と比較し、水が栄養を運ぶため肥料を入れなくとも収量があり、日本の歴史を作った作物と高く評価され、そのためか、古代稲作について調べますと、その水田稲作のルーツは何処か、誰が持ち込んだか等の議論が多い感じがします。
一方、古代稲研究者の佐藤洋一郎らの研究により、稲が4000年以上前から他の作物に混じって畑地で栽培されていたことは周知の事実になりつつあります。最近の研究を見ますと、縄文稲と弥生稲は日本型の稲で同じという結論になっています。ということは、弥生時代に水田が作られましたが、そこに先に導入されていた縄文稲が作られた可能性があります。
一方、水田を考えた場合、水を貯めるための畦作り、水路の造成、いわゆる土木工事が必要となります。しかし、水田を作るための鉄製の農具がなければ、それはできません。木製の農具とか木を伐採するための石器はありましたが、それらで水田を作ることは困難です。
そこで、2500年前頃、鉄製の農具が中国から入ってきて、水田稲作が初めて可能になった、と言えましょう。前回紹介の弥生時代の人口変化で、鉄の導入時期から増加に転じたのは、そのことの証拠と思われます。
鉄については、「稲と鉄」(さまざまな王権の基盤)という書物が1983年(昭和58年)に出版され、それに詳しく研究の結果が紹介されています(上の写真参照)。それによると、鉄利用には、①製品を大陸から導入し利用、②鉄を加工し利用、③鉄を生産し利用、の3段階があり、①の時期は短く弥生初期の時代だけで、②の時期が弥生中期に起きている、とあります。
弥生中期を1世紀頃としますと、日本では、九州で人口増大が進み、奴国が中国に朝貢したときであります。この時代、奴国で鉄加工ができていた時代であり、原料の鉄を求めて、朝鮮半島を経て、中国と交流しようとしていた様子を想像することができます。
まとめますと、水田稲作は鉄の農具があって初めて可能であり、それを大陸から移入できた北九州において、2500年前頃から水田稲作が開花し、さらに1世紀には鉄加工技術が加わり、水田稲作と、それを支える鉄が全国に広がっていったと予想されます。
なお、下の写真は、「稲と鉄」にある図表および写真で、水田稲作は北九州から広がった様子、その下の写真は鉄を使った農具で、木製の鋤(すき)の先端に鉄をはめ込んであります。



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