3000年前に稲作民族は来たのか(稲作と日本人)

3000年前に稲作民族は来たのか(稲作と日本人)
弥生時代は菜畑水田遺跡を代表に3000年頃に始まったと言われております。そして古代稲関連の報告を概観しますと、稲作民族が来て水田稲作を始め、弥生時代が始まったという記事が圧倒的に多い感じがします。そこで、今回は、3000年前に稲作民族が来た可能性について愚考します。
前回、縄文時代の稲と弥生時代の稲が同じ種類であったことについて報告しました。一方、拙ブログでは、5000年前の三内丸山遺跡時代は、朝鮮半島と中国大陸(遼東半島)と交流があったことを紹介してきました。そして、その交易の中心民族には、アイヌ系の後に住み着いたマレー系民族が積極的に関係していたことを指摘してきました。
何度も指摘していることですが、最近のDNA研究で、日本にはアイヌ系35%、マレー系30%、中国系とモンゴル系の混血のツングース系が30%、その他が5%ということが分かっています。
そして、5000年前の日本の民族を概観しますと、先住民族のアイヌ系が日本全国に、その後、1万年前頃からマレー系民族がきていたと拙ブログでは推察しております。マレー系は稲作民族であり、かつ海洋系民族です。おそらく、東北の山内丸山にもマレー系の人達は居て、そこのマレー系の人々は海洋民族の特性を生かし中国と海洋交易をし、一方、西日本にいたマレー系の人々は稲作民族の特性を生かし陸稲を作り、同じ民族として交流があったと思われます。
すなわち、それらのマレー系民族が、山内丸山遺跡に中国産の物品を残し、西日本に稲の遺跡(プラントオパール)を残したことになります。
そして、弥生時代が始まったと言われる3000年前のことですが、江南地方の水田稲作技術、そして鉄の農具が知られるようになると、それらの情報と農具がマレー系民族によって西日本を中心に伝わり、2500年前頃から弥生時代に向かっていったと思われます。
最近のDNA研究で、江南地方、さらに北に位置する山東半島、そして朝鮮半島にマレー系民族が現在も多数住んでいることが分かっていますが、3000年前当時も、それらの地域にマレー系の人々が多数住んで居たことが予想されます。そして、マレー系の民族は海洋系の民族ですのでお互いに交流交易をしていたことが予想されます。
関連し、稲作発祥の地と言われる中国とその周辺におけるマレー系民族の割合を上の地図に、そのベースとなるDNA情報を下表に示しました。

一方、北九州で水田が作られ始めた3000年前と稲が作られ人口が増え始めた2500年の間には500年という期間がありますが、この期間に弥生人が来て人口が急速に増加した様子は、遺跡の数から当時の人口を推定した小山(1984)のデータからは見えません。
また、縄文時代から弥生時代にかけて、住居は多くのところで高台から低地に少しずつ移動していったことが知られていますが、これは、低地で稲を作るため移動していったためと推察されています。
まとめますと、マレー系の民族は、縄文時代から日本各地で陸稲を作っており、その人達が、3000年前~2500年前の間に、大陸から鉄器を導入して水田稲作を始めた可能性が高いと判断されます。すなわち、マレー系民族は、もともと陸稲栽培などをして住んでおり、鉄器の農具を得て水田開発のため少しずつ低地に移動していった、と考える方が普通と思われます。

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