百済はマレー系海洋系民族の国であった(邪馬台国と日本人)
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百済はマレー系海洋系民族の国であった(邪馬台国と日本人)
蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍(上の写真参照)を出しております。そこでは、武寧王の時代、百済は中国南部の海南島付近まで進出し、そこに領土のような地域をもっていたことを紹介しております。
一方、拙ブログでは、百済は倭国と同じくマレー系民族の国であったことを指摘してきました。マレー系は海洋系民族でありますが、この書籍からも、そのことが伺えますので紹介します。
まず百済の歴史ですが、「百済の建国と成長」によれば、次のとおりです。
百済は、韓国の古代国家の一つで、紀元前18年の建国から660年の滅亡まで約700年間31人の王が在位した。建国当初は漢江(今のソウル)の中下流に位置する小国だったが、次第に周辺の小国を併合して成長した。漢江流域に慰礼城を築いて都を置いた百済は、その後、国の中興のために熊津(現在の公州)、泗沘(現在の扶餘)へと二度にわたり都を遷した。建国から、紀元後475年に高句麗に首都のソウルを奪われて熊津に遷都するまでの時代を、漢城時代と呼ぶ。また、公州に都を定めた475年からの時期を熊津時代、538年に聖王が泗沘に遷都してからの時期を泗沘時代と呼ぶ。熊津時代と泗沘時代の間に、百済は外国とも積極的な外交を展開した。その過程で科学と技術を発達させて優れた文化を花咲かせ、先進的な文化国家を築き上げた。その後百済は、660年、新羅と唐の侵略により都城が陥落し、その後3年にわたる激しい復興運動が起きたが、ついに国権を回復することができず命運が尽きた。百済は、高句麗、新羅とともに韓国の古代文化の発展の中核的な役割を果たし、東アジアにおける文化交流の中心を担った。先進的な文化を受け入れ、発展させて水準の高い新しい文化を生み出し、周辺国に伝えることで、東アジアの文化の発展に貢献したのである。百済という国は滅びたものの、百済の人々が創り出した豊かな文化は、百済の古都にその痕跡を残している。そして、百済の王都があった百済歴史遺跡地区は、百済文化の中心地として新たな文化の創造の土台となっている。(引用終了)。
そして、武寧王については、Wikipediaの『三国史記』の記述によれば次のとおりです。
東城王が501年12月に暗殺された後、首都熊津(忠清南道公州市)で即位した。暗殺者の衛士佐平(禁軍を司る1等官)の苩加は加林城(忠清南道扶余郡林川面)に拠って抵抗したが、すぐに鎮圧された。武寧王はしばしば漢江流域に対する高句麗・靺鞨の侵入を撃退し、512年には高句麗に壊滅的打撃を与えている。521年には中国南朝の梁に入朝して「百済はかつて高句麗に破られ何年も衰弱していたが、高句麗を破って強国となったので朝貢できるようになった。」と上表した。これにより梁からは、もとの<都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>から<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>に爵号を進められた。523年5月に死去し、武寧王と諡された。(引用終了)
引用が長くなりましたが、「海洋大国 大百済」と言われるのは、武寧王(在位:502年 - 523年)の時代で、公州に都を定めた475年からの熊津時代の後期にあたります。日本では、古代の天皇のなかで実在したことが証明できる継体天皇の時代(在位:507年~531年)に当たります。
武寧王は、倭国で育ったといわれますが、百済に帰国後、大国の高句麗を破り、百済に建国以来にあった北の地(現在のソウル)を回復しました。その強大な軍事力から、梁(中国・南朝)からは、<使持節・都督・百済諸軍事・寧東大将軍・百済王>という爵号をいただいております。また、仏教を熱心に取り入れ、その仏教文化を日本に紹介する基礎を作ったことでも知られております。
さらには、南方に国史を派遣し、ペルシャを含む多くの国々と外交関係を持ったこと、そして、海南島の北側に百済の地を残したと言われます。これが、海洋大国 大百済と言われる由縁でもあります。
その海南島の北側の場所を示しますと、下の図(地図)のとおりです。そこの住民は今でも地名を百済郷と言い、もと百済の臣民であった、と表記の書籍では紹介しております。

さらには、百済の名を使った現税務所の看板も紹介しています(下図参照)。

そこで、拙ブログの観点、すなわち、百済はマレー系民族の国であったことから推察しますと、百済が海外に進出し海南島北側に領土のような所をもったこと、それは、もともと、そこはマレー系民族の居た地域と思われます。百済は、それらの地域とは同じ民族としてのつながりがあり、武寧王の時代に、その関係が復活したと観ることができます。
まとめますと、魏志倭人伝に、北九州に居た倭国の人々の容貌や生活習慣は海南島の人々に似ているということが書いてありますが、このことは、倭国の人々のルーツは海南島当たりを指すと思われます。そして、海南島北側の地にも百済関係の人々のルーツがあることは、百済と倭国の人々のルーツは海南島あたりのマレー系民族であることを示していると思われます。

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