鉄剣銘文の獲加多支鹵大王は倭王武 (邪馬台国と日本人)

鉄剣銘文の獲加多支鹵大王は倭王武(邪馬台国と日本人)
蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍を出しております。そこには、拙ブログでも紹介しました熊本県の江田船山古墳の鉄剣銘文に記された獲加多支鹵(エカタシロ)大王についても言及しております。関連し、今回は、その江田船山古墳出土の鉄剣銘文のエカタシロ大王は倭王武であった可能性について愚考します。
まず、拙ブログでは、その鉄剣銘文の大王の名(獲加多支鹵)は、通説の「ワカタケル」でなく「エカタシロ」であり、慈悲深い大王の意味であることを指摘してきました。そして、江田船山古墳の埋葬者はエカタシロ大王から銘文入り鉄剣を授与された王であったことを推定しております。
一方、「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」では、江田船山古墳からは、エカタシロ大王という銘文入り鉄剣だけでなく、豪華な金銅制冠帽や金銅履などが出土しており、しかも、それらの装飾は精巧な技術で作られており、その時代の百済の地域王侯の王墓の副葬品と同様のものであることを指摘しております。そして、これらの副葬品から、金銅制冠帽などは百済の王から頂いたもので、江田船山古墳の埋葬者は、身分は百済の王侯(地方の王)の一人であった、と指摘しております。
関連し、上の写真は、Wikipediaにあった江田船山古墳出土の金銅制冠帽(国宝)です。一方、下の写真は、「百済の武寧王」の王陵出土の金制冠飾りです。

5世紀後半の当時、畿内の大和政権は雄略天皇の時代と思われますが、畿内の墳墓からこのような豪華な副葬品は発見されていないことから推察しますと、この「江田船山古墳の埋葬者は、身分は百済の王侯(地方の王)の一人であった」という指摘は、論理的であり、妥当な推察と思われます。そこで、その時代の大王は誰であったか推察しますと、古墳建造の時期から倭王武以外に考えられません。
因みに、倭王武(在位:477年~502年)は、Wikipediaによれば、中国の歴史書に次のように紹介されています。
南斉書』列伝: 南斉の建元(479年)に太祖高帝は、新たに任命した「使持節 都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・<慕韓>意補六国諸軍事 安東大将軍 倭王」の武の将軍号を「鎮東大将軍」に進めたとする。
『梁書』列伝: 南斉の建元年中(479-482年)に武は「<使>意補持節 <都>意補督倭・新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国諸軍事 鎮東大将軍」に除されたとする。
『梁書』本紀: 「鎮東大将軍 倭王」の武が「征東将軍」に進号されたとする)。(引用終了)
これらの記録から、倭王武は、新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍であったこと、すなわち朝鮮半島南部から倭国の北九州を支配する大王であったことになります。
ここに百済の名前が出てきませんが、それは、倭王武が百済とは協力関係ができており、百済の協力で中国に朝貢していたことと関係があることが推察されます。このことは、倭王武は協力関係にあった百済から金銅制冠帽などの宝物を入手できる関係にあった、と推察されます。
まとめますと、倭王武は当時の偉大な大王であり、百済から宝物をもらい、臣下の王にその宝物を与えたと推察されます。そして、江田船山古墳に埋葬された者は、倭王武の臣下の王であった可能性が高いと思われます。地理的関係から、その王は北九州南部(熊本辺り)をまかされた王と思われます。そして、エカタシロ大王とは倭王武と推察されます。
関連し、江田船山古墳出土の金銅制冠帽や金銅履の流れを下の地図で示しました。

なお、大王の名(獲加多支鹵)を「ワカタケル」と読み、大王は同時代の雄略天皇天皇(5世紀後半)であったという説もありますが、その時代、畿内ではその金銅の王冠を作る技術があったか不明、まして、畿内の王が地方の王侯にそのような豪華な副葬品を与えた事実は不明であり、問題が多くありすぎます。

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