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倭王武は百済の武寧王になった(邪馬台国と日本人)

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倭王武は百済の武寧王になった


倭王武は百済の武寧王になった(邪馬台国と日本人)

森友文書の改ざんで戦後民主主義の危機が叫ばれております。普段テレビを見ない小生も毎日テレビで状況をみています(笑)。部下に責任を押し付けている方が居られますが、日本的でない感じがします。この問題は、後ほど検討したいと思います。

さて、蘇 鎮轍(ソ・チンチョル)氏が「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」(2007)という書籍を出しております。朝鮮半島南部と北九州を支配下においた偉大な大王であります倭王武について紹介してきましたが、その書では、倭王武は青年時代を倭国で過ごし、その後、故郷の百済に戻り武寧王になった、と指摘しております。関連し今回は、倭王武と百済の武寧王の関係について愚考します。

日本の歴史に、空白の4~5世紀という言葉があります。魏志倭人伝にあります3世紀の邪馬壱国(邪馬台国)の後、4~5世紀については倭の5王と広開土王碑文以外の資料はありません。この時代を、百済、北九州の倭国、その他の日本に分けて年表を作りますと、下の表のような感じかと思います。

百済、倭国、その他の日本の古代

すなわち、この時代、倭国(北九州)以外の日本においては、継体王が現れるまでは、各地方の大王が大規模な前方後円墳を作っていた時代で、歴史に残るような事件は無く、まさに空白の時代だったと思われます。

前回、倭王武は、新羅・任那・伽羅・秦韓・慕韓六国の諸軍事を司る鎮東大将軍として中国(梁:南朝)から認められ、朝鮮半島南部から北九州の地域を支配する大王になったことを指摘しました。

当時、高句麗は中国と対立していました。そのとき、倭国が百済を助けるために高句麗と399~404年に戦ったことが広開土王碑文に記されておりますが、そのことが中国から評価されたと思われます。

一方、表記「百済部寧王の世界、海洋大国 大百済」によれば、この倭王武(在位:477~502年)は後の百済部寧王(在位:502~523)の少年時代であった、と指摘されております。

そして、倭王武は宋に478年に遣使して上表文を奉り、高句麗に侵略されている百済の現状を憂い、百済への支援を求めたことが紹介されておりますが、この上表文の内容は、同じく百済が中国に求めた上表文とほぼ同じものであったとも指摘されております。すなわち、倭王武は百済の王の子孫なので、このような上表文を送り、中国に支援をもとめた、ということになります。

一方、武寧王は倭国で生まれ育ったこと、502年に百済に帰国し、高句麗を破り、百済を強国にしたことが知られております。その在位年は502年~523年であり、倭王武の在位年の477~502年の後になっており、在位年の前後関係もぴったりと合っています。

さらには、502年以降、倭王武のことは分からなくなっています。このことは、倭王武=百済武寧王であり、関連し、北熊本にある江田船山古墳出土の冠帽などの宝物は、倭王武が百済経由で入手したものであったことを推察させます。

以上のことから、倭王武が部寧王の少年時代であったという指摘は当たっている可能性が高いと思われます。そして上の地図は倭王武が、百済に行き武寧王になった流れを示したものです。


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