継体王、小さな王宮、初代天皇か(邪馬台国と日本人)

継体王、小さな王宮、初代天皇か(邪馬台国と日本人)
継体王については、実在を確認できる最初の大王(天皇)として前回に紹介しました。一方、西川寿勝氏らが「継体天皇 二つの陵墓、四つの王宮」(2008)という書籍を出しております(上記写真参照)。
そこでは、陵墓と王宮跡がほぼ確認できたことを紹介しております。その王宮跡は、6世紀当時、豪華絢爛であったと言われる倭国の都の大宰府と比較しますと、質素で、その意味で興味深いところがあります。
関連し、今回は、その書籍を参考に、継体王は初代天皇であったことについて愚考します。
まず、継体王は大和とは関係のない越前(福井県)の出身の豪族で、応神天皇の子孫であることになっていますが、系譜について確認はできておりません。また、それ以前の大王(天皇)については、日本書紀と古事記に名前があるだけで実在を証明できたものがありません。その意味で、継体王が初代天皇という説もあります。
次に陵墓ですが、今城塚(いましろつか)古墳が有力と指摘されております。書籍にあった地図を参考に、改変して、その場所を下に示しました。その墓は前方後円墳で全長190mと中程度の大きさですが、最大規模の埴輪祭祀場が見つかったことが特徴かと思います。そこから、家、武人、巫女、牛、鶏など多様な埴輪群像が出土していますが、形がリアルで芸術性も高いと言われています。

さらに、その古墳近くには、埴輪生産場所(工場)、馬飼い場所、最初の王宮(樟葉宮 くずはのみや)跡や人々の集落跡が見つかっており、当時の様子が生き生きと蘇ってくる感じです。特に、馬飼い場所は、百済との関係を示すものが出土しており、最初の渡来人跡という解説がありました。
その渡来人跡から、拙ブログで紹介してきました継体王と百済武寧王の関係を観ることができます。さらには、北九州の倭王を別にすれば、継体王は日本で最初の外交をした大王と思われます。
そして、最初の王宮(樟葉宮)から想像しますと、大きな住居跡はなく、王宮と呼ぶには質素で、北九州の倭王の都(大宰府)とは比べようのない小さなものでした。そして、余談ですが、これが、日本の大王(天皇)の王宮であるなら、この王宮は地方の大王にふさわしい規模であり、その意味で、継体王は我が国最初の大王(天皇)であったと思われます。この時代、日本統一は始まったばかり、という感じでしょうか。

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