継体王が実質の初代天皇、国造など初めての日本支配制度(邪馬台国と日本人)
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継体王が実質の初代天皇、国造など初めての日本支配制度(邪馬台国と日本人)
篠川賢(しのかわ・けん)氏が「継体天皇」(2016)という書籍を出しております(上記写真参照)。その書では、継体王が初めて国を管轄する部署(部民制度)や地方支配の制度(国造)を設けたことなどを紹介しておりますが、これは、日本が初めて国らしい組織を持ったことを意味します。
今回は本書を参考に継体王の日本統一の実像に迫ります。
まず、武民制度ですが、これは職務分掌制度で、このことにより行政区分ができたようです。そして、それぞれの職務部署はそれぞれの有力氏族にあてがわれ運営されたようで、このことにより、有力氏族が大王(天皇)を内側から支えた雰囲気が感じられます。
この制度の由来について、百済の制度を真似たものであることが指摘されておりますが、この時代、百済の武寧王は五経博士を日本に派遣しておりますので、その指摘は当たっていると思われます。
一方、地方支配の制度として国造(くにみゃっこ)の制度を継体王が作ったと言われます。これは地方の豪族に国造としての役職を与え、地方の管理を任せ、大王(天皇)を地方から支える役割を持たせることを意味しますが、その後の国司制度のもととなったと言われております。また、この制度も百済から学んだと言われております。
この国造制度は、地方の豪族(大王)の了解のもとに使われることになりますが、この時代(6世紀前半)、どれだけの大王が継体王に従属していたかは不明です。少なくとも、北九州の倭国、関東の大王は組み込まれていなかったことが、中国の歴史書で見ることができます。
まとめますと、日本は6世紀前半の継体王の時代、ようやく行政制度そして地方管理制度が整ったと思われます。その意味で、継体王が実質の日本初代大王(天皇)と思われます。
関連し、国造制度と地方豪族の関係を下の地図に示しました。


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