五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)

五経博士受け入れによる文書作成と継体王(日本語のルーツ)
百済は、武寧王(在位:502年~523年)の時代、大国の高句麗を破り軍事的に強国となり、海外の国とも交流し、海洋大国とも言われるようになったことを紹介してきました。一方、日本との関連では、当時の継体王(天皇在位:507年~531年)を男弟王と呼び義兄弟関係にあったことを紹介してきました。
今回は、百済の武寧王が五経博士を継体王のもとに513年から日本に送り、日本の近代化に協力したこと、そして漢字(万葉仮名)導入もこの時期であったことについて愚考します。
武寧王は当時6世紀初頭の中国の南朝(梁)に朝貢し、大王の称号を得ますが、同時に積極的に仏教文化を取り入れています。また、継体王の時代、日本に五経博士を派遣しています。武寧王の子の聖王が日本に仏教を伝えたともいわれますが、ベースを作ったのは武寧王に間違いありません。
そして、万葉仮名伝来ですが、これは仏教と一緒に538年に伝わったと言われますが、それ以前の五経博士時代の513年の可能性もあります。五経博士とは易経、詩経、書経、春秋、礼記に精通した百済の儒学者ですので、当然のことながら漢字を自由に扱うことができます。
百済の武寧王は、北九州の倭国王であったときは倭王武と呼ばれていたことを紹介したことがありますが、そのとき継体王と出会い、畿内の大王は文字を持たないことを知ったのだと思います。そして、百済で部寧王となったとき、継体王の下に五経博士を送り、文書作成ができるように協力したのだと思われます。
その結果、継体王は、五経博士の助けを借りて史部という文書作りの部署を作ることができるようになったと思われます。すなわち、文書の始まりも歴代天皇では継体王からとなります。
なお、継体王と倭国のいくつかの関係から、継体王は倭国の出身という説がありますが、まだ証拠は十分ではない感じがします。
まとめますと、継体王は、百済の武寧王の支援を得て五経博士を受け入れ、漢字(万葉仮名)を導入し、文書作成が可能になったと思われます。その後、その文書作成は、遣隋使国書、さらには、聖徳太子の17か条の憲法など政治刷新に生かされていった、と思われます。その意味で、継体王は日本の基礎を作った王と思われます。
なお、上の地図は五経博士派遣の流れです。
また、関連し、奴国(福岡市博多区)のあった「比恵遺跡群(奴国)で古墳時代(3世紀後半)の石製すずりの一部が発見された」という記事がありましたので引用しておきます。
遺跡群は古代中国の史書「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」に登場する「奴国(なこく)」の中心部にあり、邪馬台国時代に奴国での文字の使用を示す貴重な発見だという。[西日本新聞・グノシー・毎日新聞](引用終了)
すなわち、倭国(北九州)では3世紀の邪馬壱国(邪馬台国)時代から文書が作られ、中国に朝貢していたことが伺えます。一方、畿内では、表記の五経博士時代(513年)時代から文字が使われ始めたと思われます。

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