倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)
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倭国の磐井王と畿内の継体王と百済の部寧王の関係(邪馬台国と日本人)
継体王が行政と地方管理の制度を作った最初の実在の天皇(在位 507~531年)であったことを紹介してきましたが、当時強国であった百済の武寧王(在位 502~523年)の支援がそれを支えたと思われます。
一方、倭国の王であった倭王武が百済に帰国し502年に部寧王となったことを紹介しましたが、倭王武の後の倭王は磐井(在位 502~527年?)と思われます。筑後国風土記では筑紫君磐井と呼ばれ、この筑紫君磐井の「君(きみ)」は王という意味で、このことから、磐井は倭国の王と推察されています。また、当時、畿内の大王(天皇)に匹敵する大きさの北九州最大の墓(岩戸山古墳)を作ったことは有名です。
そして、百済に502年に帰国した部寧王ですが、倭国の磐井王、そして畿内の継体王の両方を支援していたと思われます。強国になったとはいえ、百済は領土は小さな国で、困ったときのために日本からの支援を期待していたものと推察されます。
九州熊本産の石で作られた「阿蘇のピンク石棺」が知られておりますが、継体王時代、このピンク石棺が畿内の墳墓から多数見つかっています。この「阿蘇のピンク石棺」の流れは、倭国王の磐井の協力があって実現するものと思われます。その意味で、磐井と継体王の仲は協力関係にあったと思われます。
しかし、倭国の磐井王と畿内の継体王は527年に対立します。教科書では「磐井の乱」として有名です。なぜ対立したのか、すっきりと解明した記事はありませんが、両者をまとめていた部寧王が523年に崩御したのが大きいのではないでしょうか。すなわち、重しがなくなり、両者は利害対立した。
その対立原因にはいろいろと考えられますが、一番の対立は、継体王が、倭国王を国造として地方の王と位置づけようとしたのに対し、磐井は反対した。その結果、倭国と畿内政権の間で大きな争いとなったが、いろいろな情報を総合しますと決着は付かなかった、という感じでしょうか。
なお、上の図は6世紀前半の百済、倭国、畿内政権の様子です。

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