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倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)

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レインボー
白村江の戦いと国際関係


倭国はいつ滅びたのか(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、稲作民族のマレー系民族が南方からきて北九州に住み着き、早くから水田稲作を行い、その結果、食糧が豊かになり人口が増えて国ができ、そこは中国から倭国と呼ばれていたことを紹介してきました。

今回は、その倭国がいつ滅びたのかについて愚考します。

調べますと、「「倭国」は滅亡していた 白村江の戦の結末」に、倭国が滅びた様子が分かりやすく紹介されていました。一部を引用しますと次のとおりです。

「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末

663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。

倭国(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負けた倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?

「倭国は滅亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、「筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)と言う記事です。

「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、証拠になるのです。

白村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。

敗戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。(引用終了)

引用が長くなりましたが、663年の白村江の戦で敗れ、その過程で倭国の王は唐軍に捕らえられ、倭国は百済と同じく滅びたことになります。

倭国は、中国と新羅に攻められた百済支援のために兵を661年から3回派遣し、合計5万人近い兵を送ったと言われています。しかし、倭軍は大敗し、これを機会に百済滅亡となりました。

そして、このとき、上記記事によれば、戦争を指揮していた倭王の筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐軍に捕らえられ、倭国は国王不在となりました。このとき、大和朝廷は、かねてから対立していた倭国を取り込んだものと思われます。倭国は、白村江の戦いに敗れた後遺症もあり、抵抗もなく滅んだことが予想されます。

まとめますと、663年に倭国は、白村江の戦で大敗し、そのとき戦いに参加していた国王が唐軍に捕らえられ、倭国は国王不在となり、その後、倭国(北九州)は畿内政権に取り込まれ、現在に至ったと思われます。

これらの関係を上の地図に示しました。

以上の結果、マレー系民族の倭国は畿内政権に取り込まれ、現在では、その民族や言葉も見えなくなってしまったのが歴史の深層と思われます。

しかし、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)は、日本人に、30%程度のマレー系のDNAがあることを明らかにしました。

さらに、拙ブログでは、そのマレー系民族の言葉は、ヨカ、バッテンなど北九州の方言として今でも残っていることを紹介してきました。

関連し、上の地図は、白村江の戦い(663年)と国際関係です。このときの大和政権の日本ですが、遣唐使を送っている関係から唐とは対立せず、立場は中立だったと思われます。


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Posted byレインボー

Comments 4

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aoi
日本、中国、朝鮮半島

白村江の戦いで筑紫君薩夜麻が唐の捕虜となっている話は歴史から消されていますね.

歴史は繰り返しますから、白村江の戦いの史実が明らかになれば、もしかして日本周辺の現況も変わるやも?

  • 2018/04/12 (Thu) 20:48
  • REPLY
レインボー
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Re: aoi さん、日本、中国、朝鮮半島

aoi さん
たいへん貴重なコメント、ありがとうございます。

ご指摘のとおりだと思います。
白村江の戦いの真実、拙ブログでも検討したいと思っています。
草々


> 白村江の戦いで筑紫君薩夜麻が唐の捕虜となっている話は歴史から消されていますね.
>
> 歴史は繰り返しますから、白村江の戦いの史実が明らかになれば、もしかして日本周辺の現況も変わるやも?

  • 2018/04/12 (Thu) 21:40
  • REPLY
大川原英智

こんにちは。

とても面白いですね。白村江の戦いの後、倭国が滅んだこと、倭王が唐へ連れ去られたこと、大和朝廷がこの機に九州を支配したこと。

どれも説得力があり、僕にとってはとても新鮮な歴史の内容です。

  • 2018/04/13 (Fri) 09:48
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レインボー
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Re: 大川原英智 様、白村江の戦いの後、倭国が滅んだこと

大川原英智 様
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

白村江の戦いの後、倭国が滅んだことですが、周辺をさらに検討して行きたいと思います。
草々

> こんにちは。
>
> とても面白いですね。白村江の戦いの後、倭国が滅んだこと、倭王が唐へ連れ去られたこと、大和朝廷がこの機に九州を支配したこと。
>
> どれも説得力があり、僕にとってはとても新鮮な歴史の内容です。

  • 2018/04/13 (Fri) 11:11
  • REPLY