マハテールの民族和解政治と日本(縄文思想と日本人)
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レインボー

マハテールの民族和解政治と日本(縄文思想と日本人)
先月の海外ニュースですが、1957年の独立以来、与党連合の支配が続いたマレーシアで初の政権交代が実現しました。これを成し遂げたのが高齢92歳のマハテールでした。与党連合の時代が続いた結果、腐敗がはこびり、これを変えたのが今度の選挙と言われます。マハテールの偉大さを感じたしだいです。
私ことですが、3年間(1983~1986年)、マレーシアで働きました。このときはマハテール全盛時代でした。関連し、今回は、マハテールの政治について愚考します。
ご存知のようにマハテールはルックイースト政策で成功しました。それは従来の西洋をモデルにしたルックウェスト政策から日本をモデルにしたルックイースト政策に変えたものです。当時は、ジャパン イズ ナンバーワンなどという本が出たときで、日本の発展が世界から注目を浴びていたときでした。先の世界大戦で侵略を受けたマレーシアですが、日本をモデルにするというのは画期でした。
この政策で、日本の多くの企業がマレーシアに進出し、マレーシアも日本企業も潤いました。そのとき、私は、ソフトボールクラブに入り、日立など日本の一流企業の方たちと交際しました。そして、野外でビールを飲み、21世紀は日本の時代などと語りあい、盛り上がったものでした(笑)。
マハテールは、またブミプトラ政策という在来人(マレー人)優遇政策も進めました。公務員はマレー人優遇というものですが、40%居た中国人(華僑)や10%居たインド人の不満を残しました。しかし、日本企業は、優秀な中国人を多数雇い、そうした不満を解消しました。
このルックイースト政策とブミプトラ政策の偉大さは、従来からあったマレー人と中国人の民族対立を解消したことでした。例えば、有名な事件にマレー暴動(5月13日事件)があります。
Wikipedia によれば、「5月13日事件(マレー暴動)とは、1969年5月10日に実施された総選挙を直接の原因とする、同年5月13日に発生したマレーシア史上最悪の民族衝突事件である。この暴動はほぼ1日で終息したが、銃撃や放火などによって暴動発生後の数日間で死者196人、負傷者439人の犠牲者を出す大惨事となった。」とあります。
これは、マレー人が、俺たちが貧しいのはお前たちのせいだと怒って中国人500人を殴り殺した事件とも言われていますが、貧しいマレー人と豊かな中国人の対立、それが民族対立となって表れたものと思われます。
そこでマハテールですが、マレー暴動の後に現れ、上記政策を成功させ、マレー人も中国人も豊かになりました。その結果、民族対立はほぼ解消しましたので、国民生活は安定し、誰もが平和のうちに過ごすことができるようになりましたので、マハテールは偉大な政治を行ったことになります。
しかし、権力は腐敗するというか、マハテール引退の後、汚職腐敗がはこびり、今回の政権交代が起きたことになります。ここでは、マハテールが野党連合の旗となり、政権交代の主役になりました。マハテールのカリスマ性が今もあったということでしょうか。
そして、マハテールのような民族融和を進めた人物を日本に当てはめると、勝手な思いですが、聖徳太子がそれに相応しいのではないかと思います。
当時、日本は飛鳥時代、中央の大和政権に対し、東の関東には蝦夷と呼ばれるアイヌ系の人々が居て、一方、西の北九州にはマレー系主体の倭国があり、それぞれ言葉が違っていたと思われます。聖徳太子は、17条憲法で、和を中心とする共生政策を掲げました。そして、その後、その政策のためと思われますが、大きな争いもなく、蝦夷の国も倭国も大和政権に取り込まれ、日本統一が成し遂げられた感じがします。
なお、上と下の写真は、私がマレーシアに滞在していたときの風景写真で、平和な様子です。30年前の写真で、ぼやけています(笑)。


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