百済民族の怨念と光州事件(北方系と日本人)

百済民族の怨念と光州事件(北方系と日本人)
韓国映画「タクシー運転手」が大変な人気で、ブログ仲間の紹介もありました。それは、韓国近代史の大事件である光州事件を背景にした映画ですが、その光州は、拙ブログで紹介している百済王国のあったところです。関連し、今回は、光州事件の背景と思われる百済民族の怨念について愚考します。
まず、光州事件ですが、Wikipedia によれば次のとおりです。
光州事件(こうしゅうじけん)は、1980年5月18日から27日にかけて大韓民国(韓国)の全羅南道の道庁所在地であった光州市(現:光州広域市)を中心として起きた民衆の蜂起。5月17日の全斗煥らのクーデターと金大中らの逮捕を契機に、5月18日にクーデタに抗議する学生デモが起きたが、戒厳軍の暴行が激しかったことに怒った市民も参加した。デモ参加者は約20万人にまで増え、木浦をはじめ全羅南道一帯に拡がり、市民軍は武器庫を襲うと銃撃戦の末に全羅南道道庁を占領したが、5月27日に大韓民国政府によって鎮圧された。(引用終了)
政府の発表では、この事件で、死亡者数は170人(民間人144人・軍人22人・警察官4人)、負傷者数は380名であった(1980年5月31日・戒厳司令部発表)と、あります。民間人の死亡者の多くは軍隊によって銃殺されたと言われます。
これには、軍部の全斗煥らのクーデターと民主的政治家の金大中氏逮捕という怒りに直接の原因がありますが、北朝鮮関係者も逮捕され、北朝鮮が関与したと言われています。
しかし、このような暴力事件が、なぜ光州という田舎町で起きたのか、民衆の怒り、北朝鮮の工作だけでは納得できないものがあります。
そこで、この事件場所になった光州について考えますと、次のような歴史の怨念があったのではないかと思われます。
場所は湖南地方と呼ばれ、平野部が広がり韓国で最も稲作の盛んな地方で、もと百済王国のあったところです。この地方に住む人達は、湖南人と呼ばれ、韓国では差別されていると言われております。
例えば、慣習的観念”先天的性格の違い” によれば、「全羅道の人(湖南人)は生活力が強く、営利して社交的や、利己的で信頼性がない」、と観られているという報告があります。すなわち「信頼できない」という差別意識です。この意識は高麗時代からあると言われますので、新羅時代まで辿れるかもしれません。この関係を同ウェブサイトにあった図で示すと上の図のとおりです。
新羅は、小国ながら、百済を唐の支援を受け武力で制圧し、朝鮮半島を統一した最初の王朝です。拙ブログでは、百済は稲作マレー民族系の国家、新羅は畑作ツングース民族系(モンゴル人と中国人の混合混血民族)の国家として解説してきましたが、この意味で、新羅と百済の戦いは民族対立でした。
百済は、白村江の戦い(663年)の後に滅びますが、その結果、敗れた百済マレー系住民の文化と言葉は消えました。その民族が潰されたという恨みと怨念が、知らずして権力者と光州市民(もと百済民族)との対立が起き、今回の光州事件が起きたのではないかと思われます。
まとめますと、光州事件の背景に、百済滅亡の後、表に出てこなかった百済民族の歴史的恨みと怨念があったと思われます。関連し、百済民族のベースとなったマレー系民族の割合を下に示しました。


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