まとめ4、奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡と思われる(邪馬台国と日本人)
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まとめ4、奈良の纏向遺跡は神武天皇の王宮跡と思われる(邪馬台国と日本人)
奈良の纏向(まきむく)遺跡の箸墓(はしはか)古墳は卑弥呼の墓という説があります。しかし、「箸墓は墳長280mの前方後円墳」であり、魏志倭人伝に書かれている内容(径百歩余程度の円墳)と大きさも形も異なる、という厳しい批判があります。
そこで、その時代は邪馬台国の卑弥呼の時代ですが、その巨大な箸墓古墳は誰の墓なのか謎は深まります。関連し、今回は、その謎に迫ります。
拙ブログでは、継体天皇以前の記紀の内容は創作であると指摘してきましたが、初代天皇であられます神武天皇については、最初に日本統一を目指した大王であり、実在の可能性を支持しております。
関連し、その神武天皇の都は大和(纏向)にあり、箸墓古墳は神武天皇の墓と指摘している記事もあります。拙ブログでも、その考え方を支持しておりますが、その根拠は次の4点です。
1. 畿内の発展する時期は3世紀であり、その頃から畿内は人口が急速に増えております。関東でも同様に人口が増えています。そこで3世紀は、全国的に、この増えた人達をまとめようとする勢力が出てきた時代、すなわち大王の時代、あるいは、古墳時代の始まりの時代と思われます。関連し、遺跡の数から古代人口を推定しました小山修三(1984)のデータから作成しました近畿と関東の人口を下に示しました。(日本統一の時代背景)
2. 纏向遺跡は、突然、整備されたような都市「新造都市」といわれております。周囲に農地は無く、移住してきた王が日本統一のため中心地の場所を選んで作った宮殿と思われます。(日本統一事業のための中心場所)
3. 神武天皇は日向(宮崎)の出身ですが、そこは、魏志倭人伝によれば、南に水行20日というところの投馬国に当たる場所で、邪馬台国(人口35万人=7万戸X5人)に次ぐ大きな国(人口25万人=5万戸X5人)でした。「神武天皇の日本統一の夢愚考」で紹介しましたが、投馬国に居た神武天皇は、先進地の邪馬台国を訪問し、中国から贈られた宝物を見て感動し、遅れていた日本について邪馬台国をモデルに統一しようという夢をもったと思われます。(神武天皇の日本統一の動機)
4. 纏向遺跡は、「新造都市」と紹介しましたが、遺跡は吉備国の影響があることが分かっています。吉備国は、神武天皇が東征のとき長期間(8年)滞在した場所であり、その協力支援があって大和の在来勢力に打ち勝ち、大和に入りました。纏向遺跡は、その吉備国の協力支援のもとに作られたと思われます。(日本統一の陰の実力者の存在)
以上のような史実から、初代天皇の神武天皇の都は纏向遺跡、墓は箸墓古墳であると考えると矛盾は少ないと思われます。そして、その纏向遺跡は100年程度で終わったと言われますが、そのことは、神武天皇の日本統一の夢は実現しなかったことを示します。そして、その日本統一の夢は、次回報告の5世紀の継体王の登場によって進むことになります。
関連し、関係の場所を上の地図に示しました。


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