FC2ブログ
2018 101234567891011121314151617181920212223242526272829302018 12

まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)

継体王の日本統一6世紀前半


まとめ5.日本統一のさきがけ継体王と倭国の滅亡(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、継体王が実在の初代天皇、彼以前の王は神武天皇を除き創作であったことを指摘してきました。

また、前回、神武天皇は、日本の中心場所と思われる奈良の纏向に都を建造し、邪馬台国をモデルに日本統一の事業を始めたが100年で挫折したことを指摘しました。この理由として、この政権は、文字が無く、政権をまとめる規範が無く、広い日本を統一するには力不足であったことが推察されます。

そこで、次に現れた継体王ですが、彼は、古くから海洋交易の拠点であった若狭湾のある福井出身という地の利を生かし、朝鮮半島南部を支配していた百済武寧王と交流し、百済武寧王の後ろ盾を得ることができました。

このことは、大陸の先進文化を導入し、百済をモデルに日本統一を図ることを可能にしました。まず、五経博士を受け入れ、文書部を作ることができました。これは、以前の大王に無かったことでした。また、美しい仏像を含む仏教文化を一早く導入するなど、王としての権威を示すことができました。

この結果、我が国最初の統治機構と思われる行政機構ができあがりました。まず、王宮のあった近畿においては、財務部などの役所を作り有力者(豪族)を役にあてました。また地方については国造制度を作り、地方の豪族に国造の役職を与え、中央に従うようにしました。

この国造に反対したのが九州倭国の磐井王で、後に継体王と磐井王は対立することになりました(磐井の乱 527年)。この戦いは決着が付かなかったようですが、日本統一の事業が始まった証とも理解できます。

関連し、九州倭国と継体王の関係ですが、これら両者をまとめていたのが百済の武寧王と思われます。武寧王は百済王ですが、若いときは北九州に居て武王と名乗り、中国とも倭国の5王の一人として中国に朝貢していたことが知られております。

上記、磐井の乱が起きるのは武寧王崩御(523年)の後の527年です。両者をまとめていた大王が居なくなったので、継体王が日本統一の流れのなかで倭国を地方の一つ(国造)として扱おうとしたのではないかと思われます。しかし、当時、倭国は先進国、マレー系民族の多い地域で言葉はマレー系で大和言葉とは違っていて、継体王と一緒になることはできなかったと思われます。

そして、倭国滅亡は、同じマレー系民族の百済の滅亡と共に起こりました。いわゆる、唐と新羅に攻められた同胞の百済を救おうと大量の兵を送ったことが知られておりますが、白村江の戦い(663年)で大敗し、かつ、倭国王が中国軍捕らえられてしまいました。この結果、倭国も滅びました。

その後、倭国は日本の一部となり、倭国のマレー系民族の言葉は消えました。しかし、「古代北九州ではマレー語が使われていたようだ」で紹介しましたが、「よか」、「ばってん」等の北九州筑後弁は、それらのルーツがマレー語にあると思われます。

関連し、上の地図は継体王の日本統一時代の様子、下の地図は百済と倭国滅亡の飛鳥時代の様子です。飛鳥時代は、関東と北陸は大和政権に組み込まれる直前の様子でなかったかと思われます。

なお、こうした古代政権に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「邪馬台国と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。

倭国の滅亡と日本の国家統一7世紀


日本史ランキング
スポンサーサイト
[ 2018/06/30 22:29 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR