ツングース系民族はいつ日本へ来たのか(北方系と日本人)

ツングース系民族はいつ日本へ来たのか(北方系と日本人)
「日本人の高身長は朝鮮半島のツングース系民族に由来すること」を以前に指摘しました。さらに、「ツングース系は満州で発生した中国系とモンゴル系の混合混血民族」と前回紹介しました。
今回は、長身のツングース系民族はいつ日本へ来たのか、検討します。
彼らが日本に来る波は3回あったと思われます。
移住1回目は、5000年前頃の縄文時代最盛期の三内丸山時代で、この時期は海洋交易が盛んだったことが知られていますが、北陸を中心に異常な人口増加が認められます。この関係を、古代の遺跡の数から人口を推定した小山修三(1984)のデータを用いて示しますと、上の図のとおりです。
この図は、太平洋側の東海と日本海側の北陸の古代人口の推移比較ですが、5000年前頃北陸で異常に人口が増加しています。このことは、三内丸山縄文時代の海洋交易の結果、日本海側に人が移住して増えた可能性を示します。
移住2回目は、4000年前~3000年前の大きな寒冷化が2回あった時期で、その影響で食料不足となり、日本では縄文文化が停滞した時期であります。アジアでは北方系民族が食料を求めて南下した時代で、この移動の波は中国全土でも確認され、アジア古代の大きな波であったと思われます。日本には来たのは、朝鮮半島に居たツングース系民族と思われますが、寒冷期間は1000年という長期間で、その間、少しずつ移住してきたと思われます。
その少しずつ移住して来た証拠ですが、日本に居たアイヌ系民族の言葉に影響がほとんど見られないことが考えられます。おそらく、彼らは、年当たり100人とか300人ぐらいの単位で日本海側の地域に移住し、縄文人(アイヌ系)のお世話になり、縄文人になっていったことが予想されます。
移住3回目は、3000年前~2000年前で、この時期は、鉄器など大陸文化が導入された時期です。このとき、水田稲作文化も導入され、弥生文化が開花し、弥生人骨調査から長身の人も確認されることから、この時期もツングース系民族が日本に移住してきたと思われます。しかし、弥生時代は稲作民族のマレー系が主として活躍した時代で、ツングース系が来たのは僅かと思われます。
関連し、高身長のツングース系が弥生時代、どのくらい来たのか、人骨データから推定した弥生ミュージアムの「弥生人の身体的特徴」の一部を紹介しますと、次のとおりです。
弥生人の身体的特徴を最も雄弁に物語るのが、北部九州地方の甕棺墓等から出土する人骨です。佐賀県の三津永田遺跡や吉野ヶ里遺跡、山口県の土井ケ浜遺跡出土の弥生人骨は面高で身長が高く、中国黄河流域や朝鮮で出土した人骨と同じ特徴を備えています。一方、同時期の西北九州や東日本から出土する人骨は、そうした特長は見られず身長も縄文人同様の低身長です。(引用終了)
この記事から、縄文時代晩期から弥生時代にかけて中国大陸や朝鮮半島から高身長の人々が日本列島に渡来したが、高身長の人々の数はそう多くなく、北部九州周辺に分布する程度であったことが窺えます。
まとめますと、ツングース系民族は、縄文時代の寒冷化時代の食料不足と関連し、その時期に日本に多数移住してきたと思われます。一方、弥生時代に来たツングース系民族はわずかだったと思われます。
拙ブログでは、何度も指摘していることですが、ツングース系は畑作民族であり、稲作とは関係ありません。稲作民族として日本に来たのはマレー系民族です。
次回は、DNA研究(Y染色体ハプログループ分類)のデータを基に、ツングース系民族は日本人の半分になったことを紹介します。
なお、ツングース系民族に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「北方系と日本人」をクリックしますと、関連の記事を読むことができます。
下の地図は北方系ツングース系民族が日本に移住してきた3回の時代をまとめたものです。


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