新町遺跡の支石墓のルーツとマレー系民族の関係(稲作と日本人)

新町遺跡の支石墓のルーツとマレー系民族の関係(稲作と日本人)
拙ブログでは稲作のルーツ、稲作民族のルーツについて検討しておりますが、「渡来人の故郷はどこか」に、次の記事がありました。
福岡市の西郊、糸島半島の新町遺跡で支石墓という朝鮮系の墓から、この西北九州タイプのヒトが出土したことから、このタイプのヒトは、南朝鮮の低身タイプの渡来人ではないかとか、あるいは江南地方からの渡来人ではないかとする説が出されているが確かなことは分らない。(引用終了)
関連し、今回は、支石墓のルーツと朝鮮半島・北九州の関係、さらには、その支石墓天井の高さはマレー系の低身長に合わせて作られたことについて愚考します。
まず、Wikipediaによれば、東アジアの支石墓は次のように解説されております。
当初は、地上に支石を箱形に並べ、その上に天井石が載るというテーブル状形態を示しており、天井石の下部では葬祀が行なえるようになっていた。中国東北部・遼東半島・朝鮮半島西北部に分布する。紀元前400年頃から次第に支石が低くなっていき碁盤式といわれ、朝鮮半島西側の中南部と北部九州に見られる。また、青銅器(銅剣など)の副葬も見られ始めた。(要出典)
紀元前500年頃、支石墓は朝鮮半島(無文土器時代)へ伝播した。遺構は半島のほぼ全域で見られ(約4-6万基とされる)、世界の支石墓の半数が朝鮮半島にあるといわれている。南へ伝播するに従い、支石は地下へ埋設されるようになり、天井石が地表近くまで下りている。大韓民国では、高くそびえるもの(テーブル式)を「北方式」、低いもの(碁盤式)を「南方式」と分類しており、両形式のおおよその境界は全羅北道付近とされる。また、天井石が碁盤状を呈するなど多様な類型を示していることも、朝鮮半島の支石墓の特徴である。紀元前後になると、銅剣(細型銅剣)が副葬されるようになった。(要出典)
朝鮮半島において、分布が特に顕著なのは半島南西地域(現在の全羅南道)である。同地域ではもっとも多い場所で500-600基の支石墓が群集している。支石墓は朝鮮半島の先史時代を大きく特徴づけており、2000年には高敞、和順、江華の支石墓群が世界遺産に登録された。朝鮮半島の南部には、支石の低いごばん状支石墓(南方式支石墓)があり、北部には支石が高い卓上支石墓(北方式支石墓)が分布している。
日本では、中国浙江省の石棚墓群によく似た支石墓が、縄文時代晩期の長崎県に出現している(原山支石墓群や大野台支石墓群など)。また、屈葬の採用や甕棺を伴うことなど、一定の独自性も認められる。日本の支石墓は、弥生時代前期が終わる頃に、ほぼ終焉を迎えている。
詳細は弥生時代の墓制の項を参照。
朝鮮において水稲作が開始した無文土器時代に支石墓が現れることから、支石墓の担い手は水稲栽培をもたらした集団(ハプログループO1b2 (Y染色体))[3]と推定される。(引用終了)
引用が長くなりましたが、要約しますと、次のとおりです。
支石墓のルーツは北方アジアのツングース系民族にあり、それがツングース民族の移住と共に朝鮮半島に伝わった。その墓の天井の高さは、朝鮮半島の北方では高かったが、西南部においては、稲作民族(Y染色体ハプログループ O1b =マレー系)によって南方型の低いタイプに変えられた。新町遺跡の支石墓は同じ低い南方型になる。
そこで、拙ブログの、古代の朝鮮半島には2種の民族が居て、朝鮮半島東側に北方由来高身長のツングース系民族が、西南部には南方由来の低身長のマレー系民族が居住していた、という観点から検討しますと、新町遺跡の支石墓を作った民族は次のように考えることができます。
マレー系民族は稲作民族で、朝鮮半島西南部と北九州で稲作を開始しました。北九州の新町遺跡もマレー系民族の居住地と思われますが、その支石墓から出土した人骨は低身長であったことは、低身長と言われるマレー系民族の特徴と一致します。このことから、新町遺跡はマレー系民族の遺跡と思われます。
拙ブログでは、稲のプラントオパールが1万年前から鹿児島にあることから、マレー系の人々はイネも籾を携えて1万年前から日本に来ていたと、予想しております。そして、同様に朝鮮半島にもマレー系民族が居たことが予想されます。
朝鮮半島と北九州に稲作民族の同じマレー系が居たことは、同民族として交易交流していたことが予想されます。すなわち、国家のできていなかった時代、マレー系民族は朝鮮半島と北九州を自由に往来していた関係にあったと思われます。
そして、稲作については、朝鮮半島と北九州でマレー系民族が、ほぼ同時期に鉄器を導入し、発展させたと拙ブログでは観ています。因みに朝鮮半島最古の稲遺跡の松菊里遺跡も、日本最古の稲遺跡の板付遺跡も2500年前の遺跡です。
細かいことですが、3000年前の菜畑遺跡に最古の水田があるという報告がありますが、その水田は畦が太く高く、「それは水田でなく養魚場であった」と拙ブログでは観ています。
したがいまして、朝鮮系由来と言われる新町遺跡の墓は、導入されたというよりも、同じマレー系民族の仲間が同時期に作ったと考える方が普通と思われます。
関連し、上の地図は糸島半島の新町遺跡、および、松菊里遺跡と板付遺跡の場所です。前回の記事とダブりますが、北九州と朝鮮半島西南部には稲作民族のマレー系民族が多数住んで居たと思われます。一方、山口県など北九州より東側と朝鮮半島東側にはツングース系が多く居たと思われます。
また、下の地図は、支石墓のルーツと流れです。支石墓の天井の高さが南方に来て低くなった理由ですが、おそらくマレー系民族の低身長と関係していたと思われます。支石墓の中で祭祀も行われたことが分かっていますが、マレー系民族は低身長なので高身長北方民族のような高い天井は必要無かったと思われます。


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