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倭国の大乱で多くの人が死んだ証拠が出てきた(邪馬台国と日本人)

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九州、近畿、関東の古代人口変動



倭国の大乱で多くの人が死んだ証拠が出てきた(邪馬台国と日本人)

魏志倭人伝に倭国の大乱が出てきます。3世紀頃の話ですが、拙ブログでも参考にしているブログ「日本古代史つれづれブログ」でもその様子が伝えられています。その一部を紹介しますと次のとおりです。

大きな戦いが幾度かあり、多くの戦死者が出た。

防衛機能があった集落ですから、戦いがあったことを推定させます。また近隣にある「隈・西小田(くま・にしおだ)遺跡」(福岡県筑紫野市)からは、殺傷跡のある人骨が多数出土しており、大きな戦いがあったことを示してます(「弥生時代の戦闘戦術」(藤原哲)より)。

吉野ヶ里遺跡の甕棺には、頭骨のない人骨が埋葬されてます。首は切断されてもっていかれたとみられます。(引用終了)

一方、拙ブログでは、古代の遺跡数から古代人口を推定した小山修三(1984)のデータを重要資料として扱っております。今回は、そこに倭国の大乱を示すデータを見つけましたので紹介します。

まず、九州、近畿、関東の古代の紀元前1000年頃(3000年前)から紀元500年までの人口変動を上の図に示しました。

稲作開始は九州で2500年前頃と早く、いち早く人口が増えました。ついで近畿は200年遅れの2300年前頃から人口が増え始めます。ついで関東は50年遅れの2250年前頃から人口が増え始めます。しかし、九州の人口は、倭国の大乱の頃(3世紀)、近畿と関東に抜かれます。

下の図は九州と近畿の倭国の大乱前後の人口です。2世紀(150年頃)は、九州と近畿は10万人でほぼ同じ人口でした。しかし、350年後の500年頃は、九州は70万人、近畿は120万人で、何と50万人という大きな差異が認められます。この差異には、何か大きな要因が絡んでいると思わざるをえません。

九州と近畿の倭国大乱前後の人口変動

そこで、魏志倭人伝に記載されている倭国の大乱をその要因として考察しますと、よく合致します。すなわち、倭国の大乱(戦争)の結果、多数の人が死に、九州(倭国)の人口増加が大きく停滞したと考えることができます。

現在、九州説と近畿説という邪馬台国の所在地論争がありますが、この人口変動は倭国の大乱が九州で発生し、邪馬台国もそこにあったことを示す証拠と思われます。


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