倭国は何故戦争をしたのか?(邪馬台国と日本人)
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レインボー

倭国は何故戦争をしたのか?(邪馬台国と日本人)
前回、倭国は、国内での戦争、朝鮮半島での高句麗との戦争、畿内政権との戦争、そして唐との戦争が連続して発生し、そのために滅びたことを指摘しました。
今回は、何故戦争が連続したのか、愚考します。
まず、最初の倭国内での戦い(倭国の大乱)ですが、これは、国が一つになるときの戦いであり、やむを得ないものがあったと思われます。
関連する記事を参考にしますと、次のような感じかと思われます。
倭国は当時、福岡平野を中心とする奴国が朝鮮半島との交易を独占し大国でした。しかし、南部の筑紫平野で人口が増えて奴国よりも大きな邪馬台国が出現すると、海外交易の権利の対立など新旧の対立が発生し、大乱が起こったと思われます。
次に高句麗との戦いですが、拙ブログでは、朝鮮半島にはルーツの異なるマレー系とツングース系の2種の民族が居たことを指摘しています。マレー系民族は南方系の稲作民族ですが、朝鮮半島南西部に居て水田稲作を行い、3世紀には百済国を建設しました。一方、ツングース系民族は北方系の畑作民族で、高句麗という国を作り、朝鮮半島の南方に押し寄せてきました。この結果、民族の違いもあり、両者は朝鮮半島で対立しました。
このとき、朝鮮半島南東部には新羅というツングース系の国も建設されましたが、小国のため国力は弱く、百済の敵にはなりませんでした。
このとき、北九州には、百済と同じマレー系民族の倭国があり、倭国は同胞支援のため百済支援を続けました。因みに百済を日本では「くだら」と読みますが、「くだら(Kudara)はマレー語で兄弟(Brother)」という意味です。倭国は百済と同胞兄弟であり、このため百済支援を続けたと思われます
次いで、528年の倭の磐井王と畿内の継体王の戦いですが、ここにも民族対立がありました。倭の磐井王は「磐井の君(きみ)」とも言われるマレー系民族の王、一方、継体王は畿内を支配する日本の王です。継体王は磐井王に臣下(国造)になるように迫り、争いになったと言われます。
まとめますと、倭国は先進国で、かつマレー系の少数民族であったことが、倭国が戦争を続けた要因だったと思われます。朝鮮半島においてはツングース系が多数民族であり、同胞兄弟の少数民族のマレー系(百済)を倭国は支援する関係にありました。一方、日本においては畿内政権が日本の多数民族政権であり、倭国は少数民族ながら対抗しました。
以上のことから、少数民族のマレー系(倭国)は、小さな王国を守るため頑張り、戦争を続けたのだと思われます。
関連し、マレー系少数民族国家の百済と倭国が連携し、多数民族と戦った様子を上トップの地図に示しました。

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