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畿内と北九州は何故3世紀に交易が少なかったのか(邪馬台国と日本人)

倭国の交易事情3世紀


畿内と北九州は何故3世紀に交易が少なかったのか(邪馬台国と日本人)

拙ブログでは、北九州にあった倭国(邪馬台国)はマレー系稲作民族の国、畿内はほぼ現在と同じ混合混血の日本人の国であったことを指摘してきました。すなわち、古代西日本では言葉の異なる2種の民族がすみ分けていたと思われます。

一方、纒向遺跡は新造都市!邪馬台国と神武東征の謎解きが楽しい『邪馬台国からヤマト王権へ』に、これら北九州と畿内地域の古代3世紀の交易の様子が紹介され、2地域の間の交易が少なかったことが紹介されています。

その記事の一部を引用すると次のとおりです。

しかし、本書で白石太一郎奈良大教授は以下のように言う。

「いわゆる庄内式土器と呼ばれている3世紀の前半から中葉くらいの土器の時期というのは、日本列島各地で土器が活発に移動する時期なのです。

ただこの時期、北部九州の土器は、ほとんど瀬戸内海沿岸各地や畿内地方に移動していない。ただ、その逆は見られるのです。
吉備の土器、それから数は少ないけれど畿内の土器、あるいは出雲の土器などは、北部九州に移動しています。

鉄資源や先進文物の入手ルートの支配権をめぐって玄界灘沿岸地域の勢力とそれより東の畿内・瀬戸内勢力が、相争い、その争いに畿内・瀬戸内勢力が勝利を治めた結果と考えてもいいのではないかと思っています」(引用終了)

この記事をまとめますと、3世紀の前半から中葉くらいのとき、各地作られた土器は北九州(倭国)に移入されているのに対し、北九州で作られた土器は外側に出ていなかった、ということだと思います。

関連し、今回は、この倭国生産の土器の移出が無かったことについて愚考します。

基本的に次の2点が考えられます。

まず、この時期は倭国の大乱があったときで、倭国では土器の生産が行われていなかった可能性があります。このため、生活に必要な土器は外側に求めざるをえなかったと思われます。すでに紹介しましたように、倭国の大乱は激しく、この結果、人口が停滞しました。関連し、土器職人は、大乱を逃れ、倭国には居なくなった可能性もあります。

次に、倭国はマレー系民族の国と指摘してきましたが、倭国と畿内・瀬戸内勢力の間には民族の違い、すなわち言葉の違いがあり、両者の間には基本的に交易が少なかったことが考えられます。そして、倭国はマレー系民族の国であり、同じ民族の居る朝鮮半島の百済との交易が中心であったことが考えられます。

以上の2点から想像しますと、倭国(北九州)が畿内・瀬戸内勢力との交易が少なかったことは当然であったと思われます。特に倭国の大乱のあった3世紀は、戦乱のため交易は限られていたことが推察されます。土器に関しては、倭国にとって土器は生活必需品であり、かつ朝鮮半島から船で運ぶには重い問題があり、例外的に近隣から求めたものと思われます。

関連し、このような3世紀の様子を上トップの図に示しました。


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[ 2018/09/26 13:28 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(0)
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日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
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