百済亡命移民は何故東国に移されたのか(邪馬台国と日本人)

百済亡命移民は何故東国に移されたのか(邪馬台国と日本人)
白村江の敗戦で百済が滅び、多数の百済人が日本に亡命移民したと言われます。関連し、「古代から難民を受け入れた日本人」によれば、次のとおりです。
武蔵の国の百済人入植地記録には、
666年(天智5年)……「百済人男女2千余人東国移住」
684年(天武13年)……「百済人僧尼以下23人を武蔵國へ移す」
(中略)
崩壊した百済の支配層を受け容れるため、国の司を百済人と決め、日本各地の渡来人を東国の武蔵にまとめた記録です。(引用終了)
一方、「移民渡来人ゆかりの地名 」によれば、次のとおりです。
660 百済滅亡
663 白村江の戦いで、日本・百済連合軍大敗
666 百済人2千余人を東国に移す
668 高句麗滅ぶ
669 近江国蒲生郡に百済人700余人を移す
滋賀県日野町から東近江市にかけて百済人が配され、旧愛東町には名高い「百済(ひゃくさい)寺」がある。(引用終了)
以上の2報告をまとめますと、百済の亡命移民者の多くが、666年、辺境の地の東国(関東)に2千余人が移されましたが、669年に、関東から近江に700余人が移されたことになります。
今回は、何故、そのような配置になったのか、その実情について愚考します。
まず、当時の国際状況ですが、百済は唐・新羅連合軍に攻められ、660年に滅びました。また、百済支援に向かった北九州の倭国軍は663年の白村江の戦いで大敗し、倭国も滅びました。
このような状況のなか、亡命移民は当初、友好国の北九州倭国に移ったと思われます。しかし、その倭国が663年の白村江の戦いで敗戦すると、彼らは行き場を失い、畿内政権の管理下に置かれたと思われます。
拙ブログでは、当時、日本には倭国(北九州政権)と日本(畿内政権)があったと観ていますが、以上の結果、倭国が滅び、日本(畿内政権)は残りました。
そこで、残った畿内政権の状況ですが、日本は、遣唐使を第4回(659~661年)、第5回(665~667年)と派遣しており、唐とは友好関係にありました。
また、百済滅亡の戦後処理のため、665年、唐より劉徳高という使節がきており、日本と唐の関係は友好的だった様子が伺えます。むしろ、日本は北九州の倭国が滅び、そのことから日本統一が進んだことを唐と確認した印象を受けます。
以上の状況から百済移民を考慮しますと、彼らは唐と戦った反逆者であり、都の側には置けない存在であり、このため、僻地(関東)に移されたと思われます。
しかし、唐の使節が665年に帰国し、しばらくすると状況は変わり、669年になると、もとから百済帰化人の多かった近江に、関東流刑の一部の百済人(700人)が移住することを許されたではないかと思われます。この700人は学識があり、有能で、かつ反逆的でなく、畿内政権で使えそうな人物であったことが推察されます。
まとめますと、百済滅亡の戦後処理として、亡命移民は当初、関東の僻地に移されましたが、しばらくして、状況が落ち着くと、一部の移民に近江の地での移住が認められるようになったのが真相と思われます。
なお、百済人亡命移民は数万人という説もありますが、百済が滅んだ660年の6年後の上記記録、また、百済民衆は百済の支配者層を支持していなかったこと等から見て、2千人程度というのが実情でないかと思われます。
関連し、これらの様子を上トップの図に示しました。

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