FC2ブログ
2018 101234567891011121314151617181920212223242526272829302018 12

倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)

白村江の戦と倭国滅亡図


倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)

第 2部 「白村江の戦い」と天武王権 - 日本古代史の復元」に、『 日本書紀』の記す「百済救援」への疑問、という記事があります。その一部を引用しますと次のとおりです。

百済は日 本へ救援を要請する。このとき百済は日 本列島のどの王権に救援を 要請したのであろう か。 『日本書紀』は斉明天皇が百済の要請を受けて筑紫ヘ行ったと書いている。し かし百済が交流をしているのは阿毎王権である。552年に物部尾輿は物部色鹿火から王権を奪い阿毎王権(優国)を樹立する。552年 10月に百済の聖明王は阿毎王権の樹立を祝して釈迦仏の金銅 像・幡蓋・経論等を献じる。阿毎王権の天皇(物部尾輿)は 「 歓喜し、踊り跳 ね」たという。百済と阿毎王権の交流がはじまる。 その直後に百済は新羅と戦争を始める。 百済は樹立したばかりの阿毎王権に軍兵を乞う。(引用終了)

この記事をまとめますと、百済が支援を求めたのは倭国(筑紫国)の阿毎(あま?)王権に対してであり、日本書紀にある斉明天皇でない、となります。関連し、今回は、倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権であったことについて愚考します。

日本歴史書(日本書紀)には、神武天皇以来、日本は万世一系の天皇政権だけがあったことになっています。

しかし、旧唐書など中国の歴史書によれば、日本には当初、北九州の倭国だけがあったが、遣隋使以降、日本には倭国と日本国(畿内政権)の2国になったことが記されています。

そして、上の引用記事では、『隋書』を引用し、阿毎王権の本拠地は筑紫の鞍手郡であり、筑紫 から豊前までの北九州全域を支配していた大国であったこと、かつ、600年 -632年 まで隋や唐は阿毎王権が 日本を代表する国であると認識して交流していたことを紹介しております。

このことは、北九州の倭国の歴史は、倭の五王のあと、磐井王の時代があり、その後、阿毎王権(552年~663年)の時代が続き、畿内政権と対立していたことを示します。そして、阿毎王権は、663年の白村江の戦いで滅びたことになります。

これらの倭国の歴史を下表に示しました。なお、阿毎王権についてはウェブ検索しますと多数の資料が出てきますが、それらの記事については今回検討しません。

また、関係図を上トップの地図で示しました。

倭国(北九州)の歴史


日本史ランキング
スポンサーサイト
[ 2018/10/20 08:34 ] 邪馬台国と日本人 | TB(-) | CM(2)
阿毎王は神功皇后では?
ひもろぎ逍遥さんのブログよりコピぺ

西暦600年と607年に隋へ遣隋使を派遣した倭国の王の名を、
中国の歴史書「隋書」は、「 阿毎 多利思北孤 」と記しています。

倭王の姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、というわけです。
現在の日本の皇族には姓がありませんが、当時の 倭王には「阿毎」 という姓が
あった可能性があるということです。

このなかで、
「阿毎 多利思北孤」の 「阿毎」(あま)は「阿海」の落字ではないかという疑念が
私の中には以前からずっとあるのです。

「熱海」で「あたみ」と読むように「阿海」で「あづみ」と読めればずっとスッキリするのですが。
我が国では海神に「わたつみ」三神もおられますし、
「海」で「つみ」と呼ぶのもありなのかなと思ったのです。

「阿毎」=「阿海」で「あづみ」と読めれば、志賀海神社の現在の宮司さんの阿曇氏まで
系譜が一気に繋がるのですが。

古代中国王朝は ワ国を「倭国」あるいは「俀国 」と表記しているように、
異民族に対しての呼称はわりと大雑把で、侮蔑的な漢字をわざわざ選ぶ傾向があります。

邪馬台国には、邪(よこしま)なんて漢字があてられていますし、
卑弥呼なんて、卑(いやしい)という字がわざわざ当てられています。

                             
[ 2018/10/23 11:48 ] [ 編集 ]
Re: aoiさん、阿毎王は神功皇后では?
aoiさん
いつも貴重なコメント、ありがとうございます。

「阿毎」(あま)は「阿海」の落字ではないかという疑念、ですが、
その可能性はあると思いますが、小生には分りません。

また、阿毎王は神功皇后では?、ですが、阿毎王は男王ですので皇后ではないと思われますが、
詳しいことは小生には分りません。
草々

> ひもろぎ逍遥さんのブログよりコピぺ
>
> 西暦600年と607年に隋へ遣隋使を派遣した倭国の王の名を、
> 中国の歴史書「隋書」は、「 阿毎 多利思北孤 」と記しています。
>
> 倭王の姓は阿毎(あま)、字は多利思北孤、というわけです。
> 現在の日本の皇族には姓がありませんが、当時の 倭王には「阿毎」 という姓が
> あった可能性があるということです。
>
> このなかで、
> 「阿毎 多利思北孤」の 「阿毎」(あま)は「阿海」の落字ではないかという疑念が
> 私の中には以前からずっとあるのです。
>
> 「熱海」で「あたみ」と読むように「阿海」で「あづみ」と読めればずっとスッキリするのですが。
> 我が国では海神に「わたつみ」三神もおられますし、
> 「海」で「つみ」と呼ぶのもありなのかなと思ったのです。
>
> 「阿毎」=「阿海」で「あづみ」と読めれば、志賀海神社の現在の宮司さんの阿曇氏まで
> 系譜が一気に繋がるのですが。
>
> 古代中国王朝は ワ国を「倭国」あるいは「俀国 」と表記しているように、
> 異民族に対しての呼称はわりと大雑把で、侮蔑的な漢字をわざわざ選ぶ傾向があります。
>
> 邪馬台国には、邪(よこしま)なんて漢字があてられていますし、
> 卑弥呼なんて、卑(いやしい)という字がわざわざ当てられています。
>
>                              
[ 2018/10/23 22:35 ] [ 編集 ]
コメントの投稿












管理者にだけ表示を許可する
検索フォーム
日本人の縄文思想と稲作のルーツ
日本人のDNAと縄文思想と稲作のルーツについて海外経験と最新情報を元にユーモアをまじえて迫ります

レインボー

Author:レインボー

私は稲仕事の関係からいくつかのアフリカとアジアの国々で暮らし、日本人のルーツはアフリカまで辿れること、その思想は自然との共生思想(縄文思想)であること、稲はマレー系の人々が持ち込んだことを実感しました。その経験をベースに、日本人のDNAと稲作のルーツに迫ります。なお、ペンネームは、「虹を見る歴史思考」という拙ブログの手法と関連し「レインボー」とします。どうぞよろしく。
リンク
ブロとも申請フォーム
QRコード
QR