倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)

倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権(邪馬台国と日本人)
「第 2部 「白村江の戦い」と天武王権 - 日本古代史の復元」に、『 日本書紀』の記す「百済救援」への疑問、という記事があります。その一部を引用しますと次のとおりです。
百済は日 本へ救援を要請する。このとき百済は日 本列島のどの王権に救援を 要請したのであろう か。 『日本書紀』は斉明天皇が百済の要請を受けて筑紫ヘ行ったと書いている。し かし百済が交流をしているのは阿毎王権である。552年に物部尾輿は物部色鹿火から王権を奪い阿毎王権(優国)を樹立する。552年 10月に百済の聖明王は阿毎王権の樹立を祝して釈迦仏の金銅 像・幡蓋・経論等を献じる。阿毎王権の天皇(物部尾輿)は 「 歓喜し、踊り跳 ね」たという。百済と阿毎王権の交流がはじまる。 その直後に百済は新羅と戦争を始める。 百済は樹立したばかりの阿毎王権に軍兵を乞う。(引用終了)
この記事をまとめますと、百済が支援を求めたのは倭国(筑紫国)の阿毎(あま?)王権に対してであり、日本書紀にある斉明天皇でない、となります。関連し、今回は、倭国(筑紫国)最後の政権は阿毎王権であったことについて愚考します。
日本歴史書(日本書紀)には、神武天皇以来、日本は万世一系の天皇政権だけがあったことになっています。
しかし、旧唐書など中国の歴史書によれば、日本には当初、北九州の倭国だけがあったが、遣隋使以降、日本には倭国と日本国(畿内政権)の2国になったことが記されています。
そして、上の引用記事では、『隋書』を引用し、阿毎王権の本拠地は筑紫の鞍手郡であり、筑紫 から豊前までの北九州全域を支配していた大国であったこと、かつ、600年 -632年 まで隋や唐は阿毎王権が 日本を代表する国であると認識して交流していたことを紹介しております。
このことは、北九州の倭国の歴史は、倭の五王のあと、磐井王の時代があり、その後、阿毎王権(552年~663年)の時代が続き、畿内政権と対立していたことを示します。そして、阿毎王権は、663年の白村江の戦いで滅びたことになります。
これらの倭国の歴史を下表に示しました。なお、阿毎王権についてはウェブ検索しますと多数の資料が出てきますが、それらの記事については今回検討しません。
また、関係図を上トップの地図で示しました。


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