朝鮮半島の前方後円墳は倭国と同じマレー系民族が多く居た地域に建造された
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朝鮮半島の前方後円墳は倭国と同じマレー系民族が多く居た地域に建造された(邪馬台国と日本人)
5世紀後半、倭王「武」が六国諸軍事安東大将軍として中国南朝に認められ、朝鮮半島南部を倭国の支配下に置きましたた。関連し、前回、この時期、倭王「武」に、これらの地域に任ぜられた大王が、倭国と同じ前方後円墳を朝鮮半島の前方後円墳は朝鮮半島南西部に建造したと思われることを紹介しました。
しかし、倭王「武」の支配下になった朝鮮半島南部には任那と伽耶(上の図参照)もありますが、これらの地域には前方後円墳はありません。今回は、前方後円墳が、なぜ南西部にだけあるのか愚考します。
まず、朝鮮半島の前方後円墳は朝鮮半島南西部の韓国全羅南道・全羅北道に分布していることについて注目しますと、次のことが考えられます。
韓国全羅南道・全羅北道は古くから稲作が行われており、この地域は稲作民族のマレー系が移住し稲作が主となった地域と思われます。因みに、朝鮮半島の弥生稲作も、この地域が中心でした。例えば、弥生水田遺跡として有名な松菊里遺跡もこの地域にあります(上の図参照)。
一方、北九州(倭国)も稲作民族のマレー系民族の多い地域で、倭国はマレー系民族によって作られたと拙ブログでは観ています。すなわち、北九州と朝鮮半島南西部には同じマレー系民族が住んでおり、言葉が通じたことになります。
このことは、朝鮮半島南西部という地域は、同じ稲作民族という事情から、倭国の者が支配者になったとき、倭国の前方後円墳が導入しやすかった環境にあったと思われます。
一方、隣の、任那と伽耶ですが、ツングース系とマレー系の中間に当たり、倭国の影響は弱く、前方後円墳の建造には至らなかった、と思われます。
まとめますと、朝鮮半島南西部には倭国と同じ南方系稲作民族のマレー系民族は主として居住していたため、倭国の影響が入りやすく、倭国の前方後円墳もこの地域に入りやすかった、結論されます。
関連し、これらの関係を上トップの図で示しました。

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