北九州の装飾古墳ルーツ愚考
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北九州の装飾古墳ルーツ愚考(南方系と日本人)
これまで倭国や百済はマレー系民族によって作られた国であることを検討してきましたが、彼らの残した遺跡に装飾古墳もあります。関連し、今回は、北九州の装飾古墳のルーツについて愚考します。
まず、関連の「装飾古墳のルーツも中国華中、華南」の記事の一部を引用しますと次のとおりです。
日本の九州に顕著に発見される装飾古墳のモチーフは、稚拙ではあるが、中国南部のワ族崖画や韓国壁画に、そっくりなものが多々見られる。つまり東アジア北部と南部に点在するわけだが、この派生コースの中心地は呉越であろう。呉越のY染色体O2系列の民族移動にまったく合致するからである。http://www.searchnavi.com/~hp/koguryo/
特に韓国には日本の装飾に類似する絵紋が実によく似た格好で描かれているし、ワ族崖画の群集を稚拙な絵で並べ、弓矢をモチーフにこれまた横並びにするなどの構図は東北の装飾や福岡の五郎山古墳などに顕著である。
これらの装飾はほとんどが中国呉越から道教、扶桑思想、神仙思想の観念を描いたものと考えてよい。
古墳を持たぬ文化圏では屋外の壁画となり、韓国や日本では古墳に描かれた。特に北部九州倭人は呉越から朝鮮半島経由で到達したのであるから、それらが半島南岸・・・つまり「倭の北岸」の海人たちによって舟で伝播したのが遅くなったのでなければ、五世紀の九州倭人の民衆レベルか地方王家の眼で見てきたものが描かれたか、そうでもないなら、呉越人がダイレクトにやってきて描いたのである。
北部九州には中国南朝との、弥生時代からの稲作、製鉄における渡来を行う倭人が来たわけだから、それは呉越の遺伝子の持ち主であれば、それも当然である。
それが東国から東北にまで広がったのはあきらかに、九州倭人が移動したことによる。またあちらから先進地を視察に来て伝播するケースもあるだろう。(引用終了)
引用が長くなりましたが、この記事をまとめますと、装飾古墳のルーツは中国華中華南地方であることは間違いないと思われます。そこで、誰が、どのように持ち込んだのか愚考しますと、次のことが考えられます。
まず、北九州倭国の装飾古墳の建造時期の始まりが4世紀であることから考えますと、この時期は、倭国が百済と一体となって朝鮮半島で高句麗と戦った時期です。
拙ブログでは、百済と倭国は南方系稲作民族のマレー系民族の国であったことを指摘してきましたが、以上の関係から、装飾古墳は、マレー系民族によって、朝鮮半島の百済を経てもたらされたものと思われます。
もともと、マレー系民族は、華中・華南地域の江南地方で稲作を広め、その後、朝鮮半島と日本に移住してきました。また、マレー系民族が中国南部に多数居ることと関連し、マレー系民族の百済は中国の華中・華南と縁が深く、中国南部の王朝から呉音文字と仏教を導入し、日本に広めた経過があります。
関連し、装飾古墳の流れを上トップ記事に示しました。また、下の写真はWikipedia 紹介の装飾古墳の重定古墳(福岡県うきは市)の装飾絵です。

また、装飾古墳と関連し、北九州の墳墓の歴史について愚考しますと、まず、弥生時代に北方系の支石墓が作られ、拙ブログでは「新町遺跡の支石墓のルーツとマレー系民族の関係」について紹介しました。その後、邪馬台国の卑弥呼の時代には通常の円墳、方墳時代があり、その後、5世紀頃から前方後円墳が作られるようになりました。したがって、4世紀に始まった装飾古墳は、初めは円墳や方墳に、次いで、前方後円墳にも見られるようになったと思われます。

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