関東の弥生時代は2200年前頃から始まった
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関東の弥生時代は2200年前頃から始まった(稲作と日本人)
前回は、九州で流行していた装飾古墳が、関東でも多いことについて愚考しました。これは、関東地方は九州と同じように水田稲作が発展し、人口も増え、古代国家が多く出現したためと思われます。関連し、今回は、関東の弥生時代、すなわち水田稲作は何時頃始まったのか、愚考します。
まず、遺跡の数から古代の人口を推定した小山修三(1984)のデータを基に縄文時代から古代の人口の変動を見ますと、上の図のとおりです。比較に、九州、近畿、東北も入れてあります。
一般に、縄文時代晩期は、寒冷化の影響で全体的に人口が減少傾向にありましたが、これを打ち破ったのが水田稲作の導入かと思います。例えば、九州は2500年前頃から人口が増え始めますが、水田稲作開始時期と一致しております。
そこで、人口の増大が水田稲作の発展による食料安定供給の結果としますと、稲作の始まりは、人口が減少から増大方向に向かったときとなります。その様子を細かく見るために、上の図を拡大し、下に示しました。

この図によれば、九州の稲作開始はBC500年頃(2500年前)、近畿はBC350年頃(2350年前)、関東はBC250年頃(2250年前)、東北はBC100年頃となります。
そこで、対応する関東の弥生遺跡を検討しますと、神奈川県の海岸沿いにある「中里遺跡」が出てきました。記事の一部を引用しますと次のとおりです。
九州に最初の水田が作られたのは弥生時代の「早期」でした.その当時,関東地方を含む北日本はまだ縄文時代「晩期」だったのです.
ところで,その北日本に水田による稲作が伝えられたのは,東北地方のほうが関東地方よりも早かったらしいのです.水田の技術は日本海沿いに一足飛びで伝えられたと言うのが新しい発見にもとづく説です.
ところで,関東地方に「水稲栽培」が始まったのは今から2000年位前とこれまで考えられていました.
ところが,「中里遺跡」の発掘ではその常識をくつがえす「新しい発見」がありました.
遺跡は遠く足柄山や丹沢山塊を臨む,酒匂川とその支流である森戸川の間に作られた沖積地(川や海が作った低地)にあります.ここには毛織り物の工場がありましたが,あたらしくショッピングセンターを作るために発掘調査が行われたのです.
この土器は弥生時代の中期に「瀬戸内」で作られた土器と全く同じ形式の土器です.これまで関東地方はもちろん,中部/東海地方からも発見されたことはありません.・・・・・・ということは,これらの土器を作った人々が瀬戸内海のある地方から船でこの中里までやってきたことを表しています.
前回の調査ではとなりの区画から「水田」の跡が発見されていました.問題はその水田がどの時期に作られたか?ということでした.
今回の発掘地点からは関東地方では最も古い弥生式土器といわれる「須和田式土器」を作る人々の集落が発見されています.これまでの定説ですと須和田期には水田は作られていないということになっていますから,前回発見された水田を作った人は,今回発見された集落にすんでいた人々の時期よりもう少し新しい時期の人々ではないか?ということになります.しかし今までのところ,この附近では調査された水田の規模に見合った集落が中里以外に発見されていません.もし,中里遺跡の人々が水田を作ったということになれば,今までの説より50年以上古い時期に関東地方でも水田によって稲作が行われていたことになります.須和田期に水田があるということは非常に大きな意味がありますし,非常に大きな?だったのです.しかし,今回の調査で瀬戸内式の土器が出土したことによってこの謎が解きあかされました.
これが,須和田式土器です.瀬戸内の土器とは違いまだ「縄文式土器」の影響が残っていますね・・・・
関東地方で須和田式土器を作る時期には,すでに瀬戸内地方では稲作が行われていました.少なくとも中里遺跡に住んでいた人と瀬戸内の人々との交流が証明されたわけですから,当然彼等によって「水田」を作る技術も伝えらえたと考えるのが最も自然です.
水稲耕作はそれまでの焼き畑より多くの収穫をもたらします.これによって人々の生活は大きく変わり,やがて小国家の出現に結びつきます.
中里は関東地方におけるその第一歩を示す貴重な遺跡なのです.(引用終了)
引用が長くなりましたが、引用記事をまとめますと、神奈川県の2100年前の「中里遺跡」の隣から水田跡が発見されたこと、そして、中里遺跡からはで瀬戸内式の土器の須和田式土器が発見され、稲作を行っていた瀬戸内地方と関係があったことが分かった、ということと思います。
そこで、小山修三(1984)の人口データ、そして、神奈川県の「中里遺跡」の様子から推察しますと、関東の稲作開始は2250~2100年前頃、要約しますと約2200年前と判断されます。近畿より約100年~150年の遅れがあります。しかし、その後、人口増大が進み、AD100年頃には九州の人口を抜き、古墳時代に入って行ったと思われます。

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