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関東にも弥生人は来たのか

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関西人と関東人のルーツ


関東にも弥生人は来たのか(稲作と日本人)

前回は、関東の水田稲作の始まった時期について検討しました。人口増加の様子を見ると、その人口増加は急激であり、稲作民族が来て人口が増えた印象があります。関連し、今回は、関東に稲作民族が来たのか愚考します。

まず、人口増加率ですが、古代の遺跡の数から人口を推定しました小山修三(1983)のデータを用い、前回の水田稲作開始時期を考慮して計算しますと、下表のとおりです。

水田稲作導入後の人口増加と増加率

すなわち、関東の稲作開始時期のBC200年からAD500年(700年間)の人口増加は8000人から943,300人で118倍、年当たり人口増加率は1.007です。これは、年当たり100人に1人以下の増加ですので、自然増で可能と思われます。

一方、稲作民族が関東に来た場合ですが、日本における稲作民族はマレー系ですので、この割合は高いことが予想されます。そこで、最近のDNA研究(Y染色体ハプログループ分類)のデータを検討しますと、下表のとおりです。

関東人のルーツ

まず、縄文人と言われるアイヌ系ですが、関東では48%、関西では27%です。一方、弥生系と言われる稲作民族のマレー系は関東で31%、関西で37%です。

この結果から、水田稲作を関東に持ち込んだのは稲作民族のマレー系であると思われますが、縄文人と言われるアイヌ系の割合が稲作民族のマレー系よりも明らかに多く、関東では縄文人が稲作を受け入れたと見るのが普通と思われます。

まとめますと、関東人のルーツに縄文人と言われるアイヌ系が半数近くあることは、稲作を縄文人が受け入れたと見ることができます。また、水田稲作導入による関東の年当たり人口増加率は1.007であり、自然増加と見るのが妥当と思われます。

関連し、関西と関東のルーツの違いをNonakaら(2007)のデータを使い、上トップに示しました。

なお、関東だけでなく西日本でも弥生人が来なかったことを拙ブログで主張しておりますが、その理由は次のとおりです。

 1) 稲作は、陸稲栽培ですが、九州熊本で4000年前からあったことが明らかになっている。
 2) 稲作を導入したと思われるマレー系民族は中国南部や朝鮮半島にも高い頻度で居ることが分かっているが、インドネシアバリ島当たりにルーツがあることが明らかになっている。そして、マレー系民族の故郷には日本稲の祖先型があり、それをマレー系民族は中国江南地方に持ち込み稲作を始めた可能性が高い。
 3) 中国に居たマレー系民族が水田開発に必要な鉄器農具を朝鮮半島と北九州で陸稲栽培をしていたマレー系民族に伝えた。
 4) 九州に水田稲作導入されたと推察される2500年前頃に関し、多数のマレー系民族の日本移住があったという歴史的事件は間接的にも直接的にも確認されていない。

なお、このような稲作の歴史に関心のある方は、拙ブログ左側にありますカテゴリー欄の「稲作と日本人」をクリックしますと、今までの記事を見ることができます。 
  

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Posted byレインボー

Comments 2

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Re: 名無しさん、稲作開始時期

名無しさん
貴重なコメント、ありがとうございます。

参考にさせていただきます。
草々

> 静岡大学農学部によると、縄文時代の旧式の焼畑農業(陸稲を含む)から水田耕作に完全に取って代わったのはようやく安土桃山時代からという研究結果が発表されてます。それ迄は焼畑と水田の併作状態が長く続いてました。弥生時代に一気に水田地帯が広まったというイメージを抱きがちですが、実際は2000年ぐらいかけて徐々に徐々に水田開発が進められたのです。
> http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=148777
> 日本で水田稲作がなかなか普及しなかったのは、縄文海進による海岸侵食の影響で平地が少なく、平野部はまだ凸凹だらけで、水田耕作に不向きな黒ボク土壌・ローム層や砂質・沈泥質土壌が多かっただけでなく、森林伐採・治水工事・整地作業・育苗などがかなり面倒だったからだと思われます。それと単位面積当たりの収穫量は江戸時代も弥生時代も、そんなに違いは無かったという実験結果も発表されてます。http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=205322
> 日本の1人あたりGDPがインドを上回る様になったのは17世紀、中国を上回る様になったのは18世紀からです。その頃の李氏朝鮮は世界最貧国で、雑穀農業主体のまま古代から全く進歩しておらず、朝鮮人の殆どは竪穴式住居に住んでました。戦前の日本が半島を併合して彼らの農業を近代化したおかげで収穫量が増え、腹いっぱい食べれられるようになったから朝鮮人の人口が2倍に膨らんだんですよ。
>
> そういう訳で邪馬台国九州説は無理があります。①福岡平野・筑紫平野は基本的に砂質・沈泥質土壌のため水田耕作に不向き、②当時の福岡平野・筑紫平野の50%はまだ海の中、③甘木・朝倉地区では鉄刃農具が見つかっておらず森林の伐採がなかなか進まなかったはず、④麦・キビ・粟・稗といった輪作による雑穀農業主体だったため、収穫量・カロリー量が共に低かった、⑤九州北部の水稲農耕地は河川下流域の河跡湖が干上がった沖積層に限られ、土砂災害で耕作放棄地になりやすかった、⑥2世紀後半は倭国大乱のため九州北部が荒廃した。⑦弥生時代末期の熊本平野・八代平野・宮崎平野は大部分が海の中。⑧日田盆地や九州南部は基本的にリン酸が不足する黒ボク土壌のため水田耕作には不向き。
> 畿内説も疑問。①河内湖の水が干上がるのは2世紀頃、奈良湖の水引きは4世紀頃。河内湖の跡地60k㎡だけでは十分な穀倉地帯とは言えない。②奈良盆地北部・京都盆地(巨椋池を除く)は砂質や沈泥質の土壌のため水田耕作には不向き。③大阪湾の海岸線は今よりかなり内陸部に食い込んでいた。④畿内に鉄刃農具が普及するようになったのは5世紀以降で森林伐採がなかなか進まなかったはず。
> 出雲説もやはり変です。①国引き伝説・ヤマタノオロチ退治・因幡の白兎にあるように、2世紀〜3世紀頃の出雲は高志国(北陸)の支配下にあった、②出雲平野の汽水湖は2世紀に干上がり、鳥取平野・倉吉平野の汽水湖の水引きは4世紀頃。米子平野は砂質土壌のため水田耕作に不向き。③出雲平野の汽水湖跡地50k㎡だけでは十分な穀倉地帯とは言えない。
> 吉備説・阿波説も可能性低いですね。岡山平野・徳島平野は弥生時代末期には大部分が海の底でした。
> 濃尾平野や福知山盆地は夏場に河川の氾濫や洪水が多く、農業生産性は不安定になりがち。甲府盆地や山形盆地はリン酸が不足する黒ボク土壌のため水田耕作には不向き。秩父盆地は栄養価の低いローム層のため、水田耕作には不向き。
> しかし福井平野・豊岡盆地・横手盆地の淡水湖は西暦1世紀頃に大部分干上がっており、福井平野の淡水湖跡地(140k㎡)だけでも当時の農業技術で数十万人を養えるのに十分な穀倉地帯だったと見られ、高志国は出雲国を支配下に置いて日本海沿岸部の元締め的な存在でした。したがって邪馬台国は福井県、投馬国は但馬、狗奴国とは河内でしょう。6世紀前半に越前の王・継体天皇が20年かけて畿内を征服し、そこに遷都したと考えれば全て辻褄が合います。
> https://www.xhimiko.com/ 
> 弥生時代後期の人口を、検出された遺跡数と8世紀の人口推定を基礎に割り出すのは問題あり。古い遺跡ほど失われやすく、開発の進んでない田舎ほど遺跡は見つかりにくい傾向にあり、8世紀の人口推定には役所の管轄外や公民以外の人口が含まれてません

  • 2019/08/21 (Wed) 08:58
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レインボー
レインボー
Re: 名無しさん、訂正

名無しさん
貴重な訂正コメント、ありがとうございます。

参考にさせていただきます。
草々


> 狗奴国は信濃だったかもしれません、訂正します。松本盆地の淡水湖の湖底は2世紀頃に水が引き、鉄刃農具抜きで大規模な水田開発が可能で、石川県から安曇族が長野県北部に進出しており、長野にはこの時代の多くの遺跡が見つかってますから。

  • 2019/08/23 (Fri) 07:33
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