関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた
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関東の縄文時代晩期は寒冷化による栗林の激減に痛められた(縄文時代と日本人)
前々回、関東の稲作は2200年前頃から始まったことを紹介しました。稲作の前は縄文時代と言われますが、今回は、関東の縄文時代が、どのように弥生時代に向かっていったのか愚考します。
まず、遺跡の数から古代の人口を推定しました小山修三(1984)のデータを用いて縄文時代の関東を、東北および九州と比較しますと上の図のとおりです。
5000年前(BC3000)、関東は日本で人口最大、縄文時代黄金期と思われます。この時代、縄文遺跡では青森県の三内丸山が有名ですが、関東も似たような状況であったと思われます。
そして4000年前~3000年前の寒冷期に食料不足時代に入り人口が減少します。特に関東の減少には著しいものがあります。
拙ブログでは、「東北の縄文人は縄文カレンダー(ストーンサークル)で寒冷時代を乗り切ったこと」を紹介しました。しかし、関東の人口が激減したことは、関東が東北よりもさらに厳しい状況であったと推察されます。
そこで、その要因について調べますと、寒冷化による植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響が出てきました。
まず、植生の変化ですが、例えば「気候の寒冷化と縄文社会の崩壊」によれば、次のとおりです。
環境考古学の安田喜憲によると、6000年前ごろ気候最適期にあった縄文文化は縄文後期に入る4000年前ごろ、縄文晩期に入る3000年前ごろ寒冷化・乾燥化に見舞われた。
縄文文化は周知の通り、春には山菜、夏には魚介類、秋には木の実、冬には狩猟という、森の恵みに基盤を置いた自然=人間循環系の文化であった。この日本列島の豊かで安定した森、特に東日本の落葉広葉樹林帯(ナラ林帯)の生産力が気候の寒冷化により大きなダメージを被り、縄文人は生活の基盤を失うことになった
たとえば中部山岳の八ヶ岳文化とも言える縄文中期の繁栄は突然崩壊し、巨大な縄文都市・三内丸山もこの時期に突然放棄された。このように気候の寒冷化によって集落が廃絶した例は枚挙にいとまがない。(引用終了)
すなわち、それまで主食としていた栗などの落葉広葉樹が無くなり、食糧不足になってしまったことになります。
次いで、富士山噴火による火山灰の影響ですが、一般に、火山灰が厚く積もると、覆われた森林は死に絶え、復活するまでに長期間要します。例えば、拙ブログでは、「7300年前の鬼界カルデラ爆発」について紹介し、この結果、九州の縄文時代が停滞したことを指摘しました。
因みに、関東には、関東ローム層という厚い火山灰地層がありますが、それは、富士山噴火によると言われております。Wikipediaによれば富士山は100万年前から噴火を繰り返しており、3000年前には4回の噴火が認められています。
そこで、植生の変化と富士山噴火による火山灰の影響のどちらが大きいのか検討しますと、次のとおりです。
下の図は、縄文時代、寒冷化前(5000年前)と寒冷化後(3000年前)の地域別の人口の変化です。この図では、富士山噴火の影響の少なかったと思われる北陸と中部でも関東と同じように人口が激減してります。

すなわち関東における人口激減は寒冷化による植生変化、特に主食であった栗の激減が第一要因と思われます。そして、富士山噴火による火山灰の影響が追い打ちとなり、関東の人口は激減したというのが真相かと思われます。
なお、縄文時代、栗が主食であったことについては、拙ブログで「山栗は縄文時代の主食であった」で紹介しております。

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