貝が関東の縄文人を救った
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レインボー

貝が関東の縄文人を救った(縄文時代と日本人)
前回、縄文時代晩期(3000年前頃)、関東の人口は、寒冷化と富士山の噴火による火山灰の影響で食料不足となり、最盛期(5000年前)の10%程度まで落ち込んだこと、そして、生き残った人たちの多くは、海岸に住み漁労生活で食料を確保していたことを紹介しました。
関連し、関東は貝塚の多いことでも知られております。そこで今回は、貝が関東の縄文人を救ったことについて愚考します。
まず、Wikipedia によれば、日本の貝塚について次のように紹介されております。
縄文時代の貝塚は、日本列島ではおよそ2500個所発見されており、その4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されている。中でも千葉県下に集中しており、とりわけ千葉市内は分布密度が高く世界最大の貝塚密集地帯になっている。このほか貝塚が集中して分布している地域としては、太平洋沿岸の大きな内湾であり干潟がよく発達した仙台湾や大阪湾などをあげることができる。
東京湾岸にも集中している貝塚であるが、作られ方は時期によって違う。縄文早期では、竪穴住居や小さな調理施設である炉穴の中に捨てられている場合が多く、縄文前期にも早期と同様の貝塚が形成されている。縄文中期になると、住居がムラのほぼ中程の広場を囲んで配置されていて、それらの住居に貝塚が残されたので、結果として環状の貝塚の並びが形成されたように見える。加曽利貝塚などがこれに類する。
日本列島は酸性土壌であり、骨などの有機物が残り難い。しかし、貝塚は大量の貝殻に由来する炭酸カルシウムが豊富なために土壌をアルカリ性に保ち、鳥獣や魚などの骨格(動物遺体)がよく保存されているので、当時の生産や海辺の生活を知る動物考古学の観点から貴重な遺跡となっている。
貝塚が太古の人々の遺したものであるという考えは奈良時代に既にあり、『常陸国風土記』には、大櫛という地にかつて巨人が住んでいて、貝を食べ散らかした跡が岡になったという話が見える。なおこの跡は、現在の大串貝塚に比定される。日本における本格的な貝塚研究の端緒は、1877年にアメリカの動物学者エドワード・S・モースが東京都大田区の大森貝塚を発見し発掘調査したものである。
最古とされている貝塚は、千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚であり、紀元前7500年頃の縄文時代早期前半の土器が両貝塚から出土している。(引用終了)
この記事をまとめますと、次のような感じかかと思います。日本の貝塚の4分の1近くが東京湾の東沿岸一帯に残されていますが、中でも千葉県下に集中しています。また、貝塚で最古のものは東京湾における千葉県の西之城貝塚と神奈川県の夏島貝塚で、9500年前からあり、縄文時代の終わりまで続いています。
すなわち東京湾岸は栄養が多く貝が多く居て簡単に収穫できるため、縄文人の食糧源だったことになります。そして9500年前から貝塚があることは、縄文時代の早期から利用されており、縄文社会がいち早くでき上っていたと思われます。
そして、関東の貝塚のほとんどは3000年前頃まで続いていますので、関東の縄文人は寒冷化と火山灰の時代、貝塚の周りで命を繋いでいたと思われます。
そこで、前回の火山灰の記事、そして今回の貝塚の記事をまとめますと、縄文時代の関東は次のような感じかと思います。
関東は5000年前に縄文時代最盛期を迎えましたが、その後、寒冷化、そして富士山噴火による火山灰の影響で住める場所が減り、人口が激減しました。しかし、そうした時代にあっても、9500年前からある貝利用は、食料の供給を可能にし、数少ない縄文人を守った。すなわち、貝は次の弥生時代に向かうベースを作った、と思われます。

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