長野県の黒曜石は関東の旧石器時代を豊かにした
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長野県の黒曜石は関東の旧石器時代を豊かにした(縄文時代と日本人)
前前回、縄文以前の旧石器時代、南方から来た人々は海岸部に住み、その後内陸部に広がっていった傾向を指摘しました。一方、長野県は内陸部でありながら、旧石器時代遺跡も多く、その結果、縄文時代遺跡も多いことを指摘しました。
関連し、今回は、旧石器時代~縄文時代の日本の中心地は関東地域では長野県だったことについて愚考します。
まず、Wikipediaの記事を引用しますと、長野県旧石器時代の遺跡は次のとおりです。
野尻湖遺跡群(信濃町)野尻湖湖底及び湖西岸から南側にかけての丘陵地帯に点在する39ヶ所の遺跡の総称。その中のひとつである中期旧石器時代の立が鼻遺跡では、約4.8万年前から約3.3万年前までの地層からナウマンゾウやヤベオオツノシカなどの化石と解体に使用したとみられる骨器や石器などの道具類が一緒に出土しており、旧石器時代で大型獣を解体した跡を残している遺跡は、世界的にも僅かな例であり貴重な資料とされている。
茶臼山遺跡 - 諏訪市上諏訪、1952年(昭和27年)調査
矢出川遺跡 - 南佐久郡南牧村、1954年(昭和29年)
神子柴遺跡 - 上伊那郡南箕輪村、1958年(昭和33年) (引用終了)
上の引用記事をまとめますと、長野県の旧石器時代は、4.8万年前の野尻湖遺跡群から始まったと思われます。対して、島根県出雲市砂原で12万年前、岩手県遠野市の金取で9万年前の遺跡が見つかっていて、これらの遺跡は、旧石器時代の中期と評価されていますので、長野県のものは旧石器時代後期と評価されます。
すなわち、日本に12万年前頃、最初の人類が到着しましたが、長野県には、その7万年後の5万年前から旧石器時代が始まったことになります。したがって、前回指摘したとおり、最初に着いた日本人は、海岸に住み着き、しばらくしてから内陸部に移動し、とりわけ長野は食料豊富で、人口が増え、遺跡が増えたと判断されます。
何故、長野県で旧石器時代から人口が増大し遺跡が増えたか検討しますと、上記Wikipediaの記事、野尻湖遺跡群で発見されたナウマンゾウの解体に用いた石器がポイントになります。その石器は間違いなく、良く切れると言われる黒曜石と思われます。
事実、黒曜石は、野尻湖遺跡群近くの諏訪市にある茶臼山遺跡を中心に多数発見されており、また、その産地も近くの和田峠などいくつか見つかっております。
まとめますと、旧石器時代後期5万年前頃、東京湾辺りから長野県に移り住んだ人々は、鋭利な黒曜石を使い、ナウマンゾウなどを食料として人口を増大させていったと思われます。その結果、長野県の旧石器遺跡は、内陸部にもかかわらず多くなり、かつ、その延長で縄文遺跡も多くなったと思われます。
関連し、長野県の旧石器時代の遺跡と黒曜石の関連を、上トップの図に示しました。

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