黒曜石は縄文時代の基礎を作った

黒曜石は縄文時代の基礎を作った(縄文時代と日本人)
前回、長野県には5万年前の旧石器時代の遺跡が多くあり、黒曜石がその生活を支えたことを紹介しました。関連し、今回は、黒曜石はたいへん有用で、縄文時代への扉を開いたことを愚考します。
まず、関連する「諏訪の考古学―その1」の記事を引用しますと次のとおりです。
1 黒耀石の宝庫諏訪
信州に、そして諏訪に、人類の足跡がはっきりしてくるのは今からおよそ3〜2万年前のことである。列島をナウマンゾウやオオツノジカが行き交う時代である。八ヶ岳山麓の茅野市渋川遺跡や諏訪市茶臼山遺跡には、黒耀石の鋭利な石器や打製石斧を持つ人々が生活していた。
諏訪には旧石器時代の人々の活発な生活の痕跡が多く見出されている。特に諏訪湖周辺の高い台地上の、諏訪市上ノ平遺跡は、槍先形尖頭器がたくさん出土することで知られている。本州では最大、良質の黒耀石鉱脈が、下諏訪町の和田峠から星ヶ塔、長和町男女倉から星糞峠、八ヶ岳の茅野市冷山や麦草峠に露頭となって現れていた。黒耀石原産地の直下にある諏訪湖周辺や八ヶ岳山麓は、この時代の遺跡がたくさんあって、巧みな技術によって槍先形尖頭器など鋭利な石器がたくさんつくられた。
黒耀石はこれらの遺跡に残した旧石器人の手から手へと、県内はもちろん、関東から甲信越一円にもたらされたのである。諏訪に通ずるストーン・ロードが幾筋も諏訪に通じていたことが想像される。
2 縄文の大地に通ずる道
中部山岳地の森の文化縄文―ムラとムラを結ぶ交易ネットワーク
今から10,000年前、ナウマンゾウやオオツノジカが信州の山野から姿を消すころ、信州の大地は針葉樹林から落葉広葉樹林の森に大きく変容、自然と共生し森林の恵みを最大限に活用した縄文文化が芽生えた。
縄文時代の確立期は今から10,000年から8,000年前ころ、縄文時代早期と考えられている。諏訪市霧が峰下の細久保遺跡、岡谷市の勝弦峠付近の樋沢遺跡などの山間地に遺跡が展開する。「縄文の都」とたとえられる八ヶ岳山麓を中心とした諏訪の縄文文化の隆盛はここにその萌芽を見るのである。(引用終了)。
引用が長くなりましたが、その内容を、前回記事を含めてまとめますと、次のような感じかと思います。
旧石器時代から、鋭利で有用な黒曜石は諏訪湖周辺の河原で採集され、それに加工が加えられ、5万年前から使われてきた。また、諏訪湖周辺の山地には黒曜石原石の山があり、縄文時代には掘り出され、関東など広い地域で交易品として使われ、長野県諏訪湖周辺は原産地として栄えた。
関連し、黒曜石を中心に、縄文時代の生活について考えますと、縄文時代は定住型社会ですので、住居が必要となります。そこで材木の切り出しが必要で、この材木の切り出しに黒曜石の斧が使われた。すなわち、黒曜石は、狩り用の矢じりや調理用の包丁だけでなく、材木切り出し用品として、生活に欠かせない道具であった、と思われます。
そして、Wikipediaによれば、これら長野県和田峠産の黒曜石は人気があり、加工された矢じりが北海道まで運ばれて利用されていたことになります。
関連し、上トップに長野県の黒曜石の山地と交易について示しました。
また、下の写真は「諏訪市の旧石器時代と黒曜石」紹介の黒曜石出土品です。


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