旧石器時代から船はあったのか

旧石器時代から船はあったのか(縄文時代と日本人)
前回のWikipediaの記事に、伊豆諸島の神津島の黒曜石が旧石器時代の2万年前から利用されていることが紹介されていました。この黒曜石の利用には船運搬が必須です。
関連し、今回は、旧石器時代の船について愚考します。
まず、「第 35 回 -古代の船と航海 その1-」によれば次の通りです。
すでに、縄文時代の丸木舟は百数十艘が出土しているが、その代表的発見例として長崎県大村湾奥出土、東京都中里遺跡出土、及び千葉県多胡町出土の丸木舟について本稿の連載第8回の中で詳述した。
最も丸木舟が出土数の多いのは千葉県下であるが、その市川市雷下で2013年に道路工事の現場から縄文早期(7千5百年前)の丸木舟が出土した、これが現時点の最古の丸木舟である。
しかし、出土品の古さの記録はそれほど問題ではない、なぜなら丸木舟はそれよりも遙か以前から存在していたと推定出来る証拠があるからである。
第一は鹿児島県加世田市栫ノ原遺跡から、新石器時代(1万2千年前)の丸ノミ形石斧が出土していることである。丸ノミの楕円で深く湾曲した刃先は、片刃で木を削るのに適した構造であり、これが世界最古の「舟を作るための石斧」であると鑑定された。丸木舟は木を刳りぬく際に、焼石で焼き焦がして繊維をもろくし、そこを石斧で削ってはまた焼き焦がしという風に作り進めていくのであるが、そこで丸太の内側を細密に均等に削り、微妙なバランスの安定した舟を作るための必須の工具として、丸ノミ形の磨製石斧が使われたのである。
第二は古代の貴重品であった神津島の黒曜石の存在である。神津島は伊豆半島の約60kmの沖合にあり、本島とそこに付属する支島に複数の産地が存在する。神津島の黒曜石が旧石器時代から本州に渡っていた事実は、旧石器から縄文時代にかけての遺跡出土の石器を、蛍光 X 線分析した結果、神津島の黒曜石と同定されていることから確かである。舟がないと神津島に到達することが出来ないため、これは世界的にもこの時代に船の存在を示す古い証拠となっている。加えて伊豆半島と神津島の間には黒潮分流が平均時速4kmで流れており、それを刳舟で越えるのはちゃんとした舟、熟練した航海術とかなりの漕力を必要としたと考えられている。(引用終了)
また、「琉球列島の旧石器時代の遺跡」によれば、次のとおりです。
琉球列島にホモ・サピエンス即ち「ヒト」がやって来たのは、約三万七千年前とみられます。 奄美大島、徳之島、沖縄島で、この現世人類の遺跡が報告されています。その中で、最も古いのが、那覇市の山下町第一洞穴遺跡で、其処では約三万六千五百年前の日本最古の人骨が発見されている由です。この例を始め、石灰岩は人骨を守ると謂われており、各地で化石人骨が多く見つかるようになりました。併せて、ヒトが食した魚貝類や動物の遺骸も多く発見されています。確かに旧石器人が暮らしていたのです。(引用終了)
これらの記事をまとめますと、丸木船は旧石器時代からあったことかと思われます。また、海に囲まれた沖縄では、約3.7万年前以上前から人類が居たことが確認されています。すなわち、旧石器時代から海を渡る方法があったことになります。
関連し、拙ブログでは、「最初に日本に到着した人類」はアイヌ系民族で、インドネシア辺りにあったスンダランドを経由して12万年以上前に沖縄を経由して日本に来たと観ています。
12万年前、人類はどのように海を渡ったのか、それは謎に包まれていますが、12万年前というのは、人類誕生を最新情報の30万年前としますと、18万年という気が遠くなるような年数が過ぎていて、石器で削った丸木舟があったと観てもおかしくないと思われます。特に、アフリカを出た後はアジア南方の海沿いを移動してきたアイヌ系民族は、当然のことですが、海に慣れた民族と思われます。
これらの記事をまとめますと、石器から作られた丸木船は10万年以上前からあり、それを使って旧石器時代人は日本に移住し、さらに、鋭利な黒曜石を発見すると、丸木舟建造はより容易になったと推察することができます。
関連し、上トップの図は旧石器時代12万年前頃の人類の日本への道です。海路が多く、移動のための船があったと推察できます。

日本史ランキング