鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考
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鳥浜貝塚のヒョウタンと船愚考(縄文時代と日本人)
前回、旧石器時代、ヒョウタンと船はセットであったことを愚考しました。そして、福井県鳥浜貝塚でヒョウタンの種遺物が発見されたことを紹介しました。福井県鳥浜貝塚は古代の船が発見された所でも有名です。
すなわち、航海に必要な船と水筒(ヒョウタン)がセットで発見されたことになりますが、関連し、今回は、鳥浜貝塚のヒョウタンと船について愚考します。
まず、船に関する詳しい情報は、「Wikipedia(鳥浜貝塚)」によれば次のとおりです。
鳥浜遺跡から1981年7月と1982年に丸木船が1隻ずつ出土した。
前者は縄文時代前期のもので、当時この期の丸木舟としては日本最古であったので第一号丸木舟と名付けられた。(1998年に京都府舞鶴市浦入遺跡でも同時期の丸木舟が出土している。)保存状態は良好であるが先端部分が失われている。船尾はとも綱を巻き付けたものか浅いくぼみが残っていて、長期間使用されたことが窺える。舟体は直径1メートルを超えるスギの大木を 竹を縦に二つに割る要領で造ったと想像でき、内と外を削り、火に焦がしたりして造っている。舟底は平たい。長さ6.08メートル、最大幅63センチメートル、厚み3.5〜4センチメートル、内側の深さ26〜30センチメートル。
後者は縄文時代後期(約3000年前)のもの 船底のみが残っていた。現在の長さ3.4メートル、最大幅48セントメートル、厚みは4センチメートルで、内側には肋骨のように舟を補強するためのものか、または、漕ぐ時に足をかけるものかは不明だが、凸型の彫り出しがあった。材は第一号と同じくスギで造られており、第二号丸木舟と名付けられた。スギ材で造られている丸木舟は縄文時代では非常に珍しく、東日本で見つかっている舟は、イヌガヤ、ムクノキ、クリ、からなどで造られていた。丸木舟は、鳥浜の人の活躍の範囲を拡げたことであろうし、食料獲得に果たした効果も大きかったと推定される。(引用終了)
この引用記事を参考に、古代の船についてまとめますと、次のようになります。
鳥浜貝塚では、12000年~5500年前の遺跡で、日本最古の船が見つかっており、その全長は6.08mだった。
関連し、別の記事によれば、鳥浜遺跡の隣の舞鶴市千歳の浦入遺跡からは全長が8mの船が見つかっておりますが、こちらの方は弥生時代の遺跡で、外洋航海用と推定されています。さらに、その周囲には縄文時代~弥生時代の船が多数見つかっており、若狭湾一帯は縄文時代から海洋交易として栄えていた、と思われます。
そこで、福井県の鳥浜遺跡辺りを観察しますと、入り組んだ地形で、穏やかな海に面したところが多く、天然の良港であった思われます。そうした環境を背景に、縄文時代早期からの丸木船が多数発見されており、古代から海洋交易の拠点であったと思われます。
5000年前は、三内丸山遺跡を代表に縄文時代最盛期と言われますが、福井県の鳥浜遺跡もその一つとして、三内丸山遺跡と結ばれていたと思われます。関連し、そこでヒョウタンの種が発見されていますが、それが、その航海を支える必需品として利用されていたことは想像に難くありません。
関連し、鳥浜貝塚と山内丸山の場所を上トップの図に示しました。

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